変化と始まり

 ふとダレルは顔を上げた。渡り廊下から仰ぐ空は、澄み渡る青。
 ――風向きが変わったな……。
 それが何の兆候かわからないまま、ダレルは再び前を向き廊下を静かに歩く。

「――ダレルっ!!」

 しかし、その足もすぐに止まった。
 弾かれたように振り返った廊下の先、こちらへ駆け寄ってくる幼馴染の姿を見て目を見開く。桃色の髪を揺らす彼女を見るのは随分と久しく、一瞬夢ではないかと思う。
 けれど彼女の腫れた赤い目も、何もないところで躓くのも、咄嗟に受け止めたぬくもりも全て幼い頃から少しも変わらなくて、ダレルはようやく実感を得た。
「……クラリッサ?」
「ダレルっ、ごめんなさい! 私、私っ……」
 クラリッサは感極まったように涙を零し、言葉を詰まらせる。ここのところ引きこもっていたわりに最後に見た時から痩せていなくて、ちゃんと食べていたのかと妙なところで安心してしまった。
 靴音がして視線を移すと、彼女が駆けてきた方から一人の男が歩み寄ってくる。微笑をたたえる彼を見て、なるほどと納得する。全て彼のお陰であるらしい。
「ありがとうございます。ハミルトン殿」
 サイラスは何も言わず、ただ微笑むだけだった。
 ダレルはしがみつくように泣いているクラリッサの肩を掴み、そっと自分から引き剥がす。クラリッサがきょとんと丸くした目で見上げてくる。腰を屈め目線をあわせ、彼女の瞳をまっすぐに見据えた。
「クラリッサ。お前の愛する人は見つかったか? お前はもう、一人で泣かずに済むのか?」
「……ええ。大丈夫よ、ダレル。私、もう一人ぼっちじゃないもの」
 クラリッサは微笑む。頬は涙に濡れていても、幸せだと伝わってくる優しげな笑み。
「……そうか」
 ダレルもつられるように少しだけ笑った。
 泣き虫な幼馴染。引っ込み思案な幼馴染。臆病な彼女が断言するのなら、大丈夫だ。
 よかった。心からの安堵が零れる。サイラスには感謝しなくてはならない。
 クラリッサが頼りなかったのかと言えばそうではなく、気弱であっても頼り甲斐はあった。しかし二十年も不変であった幼馴染三人の中で、自分達が成長できたのかと聞かれれば答えは否だろう。関係が不変であったと同時、自分達も子供のまま何も変わらなかった。
 クラリッサが成長するきっかけを作ったのはサイラスだ。サイラスへの恋心が、クラリッサを変えた。
 その変化は少なからずダレルにも影響した。長年恋焦がれた相手へ想いを告げられたのも、彼女の変化があってこそだと思っている。
「――クラリッサを、よろしくお願いします」
 お礼を伝えても謙遜して否定される気がして、代わりにダレルは深く頭を下げた。
 幼馴染が狼狽する気配の中、くすりと笑む声がする。
「はい。私こそ、やっぱり返せと言われてもお返しできませんので。そこはご了承くださいね」
「返品不可ですのでご安心を。返すと言われても受け取りません」
「か、返すとか返さないとか、言い方が酷い……っ」
 折角止まった涙をクラリッサがまた浮かべる。ダレルは眉を下げ、ぐしゃりと桃色の髪を撫でた。
 優しく背を押してやる。そうすれば一つ年上の幼馴染はほんのり頬を赤らめて、気恥ずかしそうに笑みを零しながらサイラスの傍に寄り添った。
「ところで、ダレル、フィオナを見てないかしら」
「フィオナ? まだ外出許可が出ていないんだろう。部屋にいるはずだが」
「その事なのですが、医師からの許可は十日程前に出ています」
 申し訳なさそうに口を挟んだサイラスに、ダレルは僅かに目を丸くする。ますますサイラスは苦笑した。
「フィオナ殿が出歩けばまず間違いなく怪我を悪化させると、殿下がまだ暫くは告げぬよう口止めを」
「ああ……正しい判断です」
「そうだったのですか? でも、エリオット殿下とお出かけしてるんですよね。具合は大丈夫かしら」
 ダレルはまた瞠目する。それこそ初耳である。
 しかしクラリッサはそんな幼馴染には気づかずに、「殿下が見張ってくださっているなら無茶もできないでしょうけど……」ともう随分と顔を見ていないフィオナを案じた。
 その隣で、サイラスはやはりダレルに向けて苦笑い。主の抜け駆けを黙っていたのを多少申し訳なく思っているようだ。だがそんな気遣いは不要である。この想いは、もう清算されたのだから。
「クラリッサ、お前に報告したかった事がある」
「えっ、ごめんなさい! そうとも知らずに私ったら……!」
「反省はいいから聞いてくれ」
「う、そ、そうね。ごめんなさい。何かしら?」
「フィオナに告白をした」
 銀色の瞳が零れんばかりに見開いた。サイラスも同じように珍しく驚いた顔を晒している。
 それもそうだ。まだ誰も知らない。一番に、ずっと見守ってくれた幼馴染に報告したかった。
 クラリッサの目が続きを促しているのに気づいて、ダレルは微かに笑う。
「フィオナは俺を好きだと言ってくれたよ。――友人として」
 ちくりと胸が痛んだ。しかしそれを気にせずにいられる程、気分は清々しい。
 彼女への恋は本物だった。けれど伝えてしまえば不変を望む彼女が離れていく気がして、何年も胸に秘めてきた。
 正直、不変の関係は心地好い。だが、それではいけないのだ。
 クラリッサは何も言わずに微笑むだけだった。包容力のある微笑に自然と胸もあたたかくなる。
 大丈夫だ。クラリッサも、自分も、――フィオナも。

「ダレル! ――と、クラリッサ!?」

 聞き慣れた声が渡り廊下に響いた。
 振り返れば、もう一人の幼馴染とかつての恋敵が少し驚いたようにこちらを見つめている。途端にクラリッサが駆け出し、彼女の怪我も構わず抱きついた。
 痛みに顔をしかめながらも、泣きながら謝るクラリッサにフィオナは愛おしげに優しく背を撫でてやっている。
 ダレルは静かにエリオットを見据えた。ダレルの視線に気付いたエリオットも、堂々と見つめ返してくる。
 それだけで、充分だった。
 深くエリオットへ向けて頭を下げる。言葉にするのは、まだ癪だった。
 顔を上げると、少し目を赤くしたフィオナをまっすぐに見つめる。
「フィオナ。幸せにしてもらえよ」
「え? えっ、な!?」
 きょとんとしたフィオナだったが、すぐに言葉の意味を理解したのか、一瞬で顔を真っ赤に染めた。
「なな、なんで、お前知って……!」
「ま、まさか、フィオナ、殿下にお返事したの!? 殿下と結ばれたの!?」
「そういう事だから、クラリッサ、そろそろ俺の婚約者殿を放してくれないか。妬けてしまう」
「まあ……! すみません私ったら、何も気付かなくって!」
「この馬鹿王子! 調子に乗るな! いつ婚約なんかしたんだ!!」
「フィオナ殿、落ち着いてください。お怪我に障りますよ」
 にこやかに笑うエリオットに、夢見るようにうっとりと頬に手を当てるクラリッサと、微笑を崩さず宥めるサイラス。そして、林檎のような顔で憤慨するフィオナ。
 この賑やかさがひどく久しいような気がして、ダレルは目を細める。
 ようやく日常が戻ってきた。そして、ここから変わっていく。
 大丈夫だ。もう立ち止まったりしない。変化を恐れたりしない。
 ダレルは、彼らのもとへゆっくりと歩き出した。
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