王子と少女
十三年前――勇敢な勇者と呼ばれる者達が魔王に立ち向かおうとする時代。
十歳のエリオットは、走っていた。
人の間を縫うように大通りを駆け、路地裏へ入り、時折物陰に隠れては息を潜める。
今日の城下町には治安部の制服の他に、衛兵の姿もちらほらと見えた。慌しい彼らの様子に住民は少々不思議そうにしているが、特に声をかける事もなく普段通りの生活を送っている。
衛兵らが通り過ぎていくのを確認し、その原因であるエリオットはそっと息を吐いた。
「……窮屈だな」
何が不満なのかと聞かれれば、答える程の不満はない。自分が恵まれた暮らしをしている自覚はある。
ただ、窮屈だった。元々尊敬する父の言葉に従うようにして王城を抜け出していたのだが、近頃は城の中に押し込められた生活に嫌気が差してきた。
勉強は嫌いではない。王となるのに相応しくなりたい。
そう思う一方、塀の向こう側から聞こえる賑やかな声がとても羨ましく感じるのだ。
前までは、時々抜け出しても護衛を伴えば大人達は目を瞑ってくれた。昔から父の脱走癖に悩まされてきたのか、そのあたりはもう慣れた様子である。
しかし三年程前から、突然厳しくなった。王子として外に出る時以外、つまりこういったお忍びの外出は認められない。
なんでも、安全だと思われていた城下町でも魔物の被害が何件か出たらしく、大人達はそれを警戒しているらしい。
自分の身分は理解しているが、それでも理不尽だと思ってしまう。城下が危険ならば城内も同じだ。
反抗期真っ盛りのエリオットは勿論そう主張するのだが、大人が聞いてくれる筈もなく、時折こうして強硬手段に出るのだった。
今回はかなり渋々といった様子で見逃してくれたサイラスを囮に逃げてきたのだが、もう追っ手は放たれており、衛兵と追いかけっこをしていても意味がない。
エリオットは再度物陰から追っ手の姿がない事を確認すると、意図的に見覚えのない方へと走った。
「もうそろそろ、ジエタ地区か……?」
頭の中でおおまかな地図を確認する。以前は本当に王城の周辺を歩き回っていたので、城下町の端っこであるジエタ地区に足を踏み入れたのは初めてである。
暫く走ってみるが、まだここまで辿り着いていないと思っているのか、追っ手は見当たらない。
走り続けてそろそろ疲れてきた。どこかで休もうと周囲を見回してみるが、あるのは民家ばかりでその場凌ぎが出来そうな店などはない。
変に路地裏にいるよりはと、目に付いた墓地に入った。まさか王子が墓石の影で休んでいるなど考えないだろう。
ちょうど人影もなく、どこか隠れやすい場所はないか探しながら奥へと突き進んでいると、一つの墓の前に蹲る小さな背中があった。
どきりとして思わず足を止めれば、エリオットの足音に気付いたのか、びくりとその背中が震える。
子供だ。歳は同じ、あるいは少し下くらいだろう。金色の髪は肩の辺りで揃えられ、俯いている所為か髪の間から白いうなじが見えた。金髪の小さな少女。
なんとなく立ち去る事も声をかける事も出来ずにその背中を見つめていると、少女は少しごそごそとしてから、恐る恐るといった様子で振り返る。
大きなエメラルドの瞳がエリオットを見つけた。目があった途端、僅かに丸くなる。
その目尻が赤くなっているのに気付き、エリオットはついくしゃりと顔を歪めた。
「……泣いているのか?」
「っ泣いて、ない。目にゴミが入ったんだ。私は、泣いてない」
大人なら気をきかせて立ち去るなり何なりする所だったが、子供にそんな器用な事は出来ない。ほぼ無意識の内に零れ落ちた問いかけに、少女は怯えたような目をして必死に首を振った。
まるで自分に言い聞かせでもするようなそれに眉を寄せつつ、エリオットは少女に歩み寄る。そうして腰を屈めて濡れたまつげを指でなぞれば、少女が不思議そうに見上げてきた。
「嘘つけ。ああ、擦ったから腫れてる。拭いてやるからじっとしろよ」
「……ありがとう」
「女には優しくしないとな」
ポケットから出したハンカチを押し当てるようにして涙を拭う。強がりの割りに素直に礼を述べた少女を意外だと思いつつ、エリオットは苦笑した。
本来それほどフェミニストでもないのだが、女が泣いていたのに涙を拭ってやりもしなかったと母親に知られれば、どれだけお叱りを受けるか。
新しく涙が零れない事を確認しハンカチを仕舞うと、少女がもう一度おずおずと礼を言う。気にするなと笑い、すぐ傍の墓石に目をやった。
刻まれた名前は、二つ。
「……私のお父さんと、お母さん」
ぽつりとした呟きに弾かれたように少女を見ると、彼女は白い墓石の名前をぼんやりと見つめている。
「病気か?」
「ううん。魔物に殺されたんだ」
淡々とした声だった。感情が全く含まれない、そこにある文字を読むように告げた少女は、ちらりと様子を窺うようにエリオットを見る。
その視線の意味を理解したのは、「やっぱり、この辺りの子供じゃないんだな」と少女が呟いた後だった。
恐らく、この近辺では有名な話なのだろう。それもそうだ。城下町で魔物に襲われ、人が死んでいるのだから。
そして直感する。大人達が城下へ出るなと言う理由になった出来事は、まさにこの少女の身に起こった事件なのだろうと。
心臓の辺りがぎゅうぎゅうと締め付けられるような感覚に顔を顰めると、少女は再び墓石を見つめた。大きな瞳が涙を溜める様子はない。
「今日、命日なんだ。いつもは幼馴染と来るんだけど、命日は一人で来るんだ」
「それで一人で泣いてるのか?」
「違う! 泣いてない! 私は、そんなに弱くない!」
ふるふると頭を振って、少女は抱えた膝に顔を埋めた。
しまった、泣かせたか。そう思いエリオットが謝ろうとするが、それを阻むように少女がぼやく。その声は、決して涙声ではなかった。
「お父さん達は、私を守ってくれた。だから、今度は私が守るんだ」
やはりどこか自分に言い聞かせるように言う少女を、エリオットはただ見つめる。
忙しくてもよく構ってくれる両親。世話をしてくれる侍女や侍従。心配してくれる家臣。自分は恵まれているのだと、改めて思わざるをえなかった。
あの大きな城に閉じ込められる事で、自分は様々な物事から守られている。なら、この少女は?
「……これからは、誰がお前を守るんだ?」
「……いらない。私は、守るんだ。お父さん達も、家も、ダレルも、クラリッサも、デイジー達も……みんな守る。私は守られなくていい。私は、強いんだから」
そんな馬鹿な話があるか。そう罵ってしまいたくなるのに、何故か言葉は出てこないまま胸の奥でもやもやととどまる。
少女は暫くそのまま顔を埋めていたが、ふと弾かれたように顔をあげた。
「よし。お前に話したら、なんかスッキリした。今日はもう帰れそうだ」
振り返った少女が、眩しそうに目を細めて礼を述べた。
綻ぶような笑みに、驚いた心臓が跳ねる。エリオットは思わず視線をそらした。
どきどきと異常なほど強く脈打つのを感じながら、胸に手を当てる。まさか、こないだアリスンが気にしていた不整脈だろうか。
そう考えて苦々しい顔を作った時、墓地の外が少々慌しくなるのがわかった。
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