泣き虫と木偶坊

 研究室の扉を開けたまま、クラリッサはぱちぱちと目を瞬いた。
 何故彼がまたここにいるのか。そればかりをぐるぐる考える。
 毎日昼食を運んできてくれる彼は今日はもうその『お仕事』を終えて、少なくとも明日にならなければ姿を見ない筈だったのに。
 そんなクラリッサの困惑も全てわかりきったように、サイラスは柔らかく微笑んだ。
「殿下が王妃様に半ば強制的にフィオナ殿の所へ追いやられましたので、必然的に仕事がなくなってしまったのです。お供しようとも思ったのですが、殿下に嫌がられてしまい……」
「はあ……」
「ご迷惑でなければ、ここにいてもよろしいでしょうか」
 にこりと笑む彼は、きっとクラリッサが断れない事を知っている。
 恨めしいような悔しいような気持ちで招き入れると、彼はやはり笑顔でお礼を述べて中へ入ってきた。
 数日前から新たに置かれた椅子は言わずもがな、毎日訪れるサイラスの為の物で、最初こそ遠慮していたサイラスは今では自然とそこに腰を下ろすようになっていた。
 今回も同じように座ったサイラスを見つつ、クラリッサもおずおずと自分の椅子に腰かける。どことなく居心地の悪い思いは、彼が来た時はいつもそうだ。今回は没頭できる食事もない分困った。
 長時間座っていても疲れなさそうな椅子の上で縮こまっているクラリッサを見つめ、サイラスは困ったように眉尻を下げた。考えるように一度窓の外へ視線を向け、また彼女へ戻す。
「そろそろ、殿下とフィオナ殿が出かけた頃でしょうか」
「……城下へ行かれたのですか?」
「ええ、恐らくは。行き先は教えてくださりませんでしたが、軽装に着替えてらっしゃいましたから」
 二人にとっていい息抜きになるといいが。そう言って笑う彼が、あえてクラリッサの事に触れようとしないのはよくわかっていた。
 自分の心もよくわからないのに人の機微に敏感である筈がないと、寂しそうに笑う彼である。ここ数日間、クラリッサを傷つける可能性のある言葉は、必要のない限り口にしないようにしている。今の所、初日に触れてきた時だけで、以来、気にしている素振りすら見せない。
 しかし彼は必ずこの部屋を訪れて、クラリッサがちゃんと食事をするのを見届け、その間他愛のない話をして帰っていく。
 正直、クラリッサには彼が何を考えているのかわからなかった。
 今の状態が褒められたものではない自覚はある。しかし叱責も慰めもせず、なんでもないような話ばかりをするサイラスが不思議で堪らない。
 他人であるクラリッサが彼の心を理解するなど到底無理な話なのだろうが、それでも、もう聞かずにいられなかった。
「サイラス様は、何故私を構ってくださるのですか」
「可笑しな事を仰いますね。暇を持て余した私を構ってくださっているのは貴女でしょう?」
「今だけの話じゃ、ありません。自分が面倒臭い女だってわかっています。今だって、室長という責任ある立場で部下を不安にして、たくさんの人に迷惑をかけて……関係のない貴方の気を煩わせて。無理をして、私に付き合ってくださらなくても大丈夫です。……私、ちゃんと慣れています」
 気弱で、泣き虫で、愚図で。昔から、同年代の子供には呆れられてばかりだった。
 自分だってこんな自分は好きになれない。それなのに好きになってもらえるなんて思った事はなかった。それこそ、フィオナとダレルに出会うまでは。
 例えば白黒の世界に色がついたような、それは革命に近い衝撃。二人が傍にいるだけで毎日が変わった。
 彼らは決して自分を拒まない。全てを知った上で受け入れてくれているからこそ、そう信じられる。
 だから大丈夫だ。他の何百人に嫌われても、絶望する事はない。――たとえその何百人に、恋い慕う人が含まれていても。
 膝の上に置いた手に力がこもるのを感じながら、クラリッサはその手を見つめ俯く。すると不意に溜息が聞こえて、びくりと体が強張った。
「クラリッサ殿」
 落ち着いた声音で名前を呼ばれ、おずおずと顔を上げる。
 見上げた先で、サイラスは困った子を見るような穏やかな眼差しをクラリッサに向けていた。
 思っていたよりもずっと優しいそれに、どきんと鼓動が跳ねる。
「クラリッサ殿には既にお話したとおり、私はそれ程出来た男ではありません。殿下の為にと考えながら、その実あの方から離れられない自分の為でもありますし、利のない厄介事に首を突っ込むタイプでもない。それはこの件も例外ではないのですよ」
「……ここに来る事で、サイラス様に利があると仰るのですか」
「納得できないといった顔ですね」
 少しばかり眉を寄せたクラリッサにサイラスはくすくすと笑みを零し、「では、丁寧に説明して差し上げましょう」と彼女の手を握る。
 突然触れられた事に驚いて手を引きそうになるが、それを咎めるように彼が握る力を強めた。困惑しきった銀色の瞳に、サイラスはどこか楽しげに笑む。
「まず、ここに来れば貴女とお話が出来ます」
「……え?」
「貴女を見ると安心します。気落ちしている貴女が、私と話す事で少しでも笑ってくだされば嬉しいです。貴女は他の誰も通さないのに、私だけを招き入れてくれる。その事に優越も感じています。むしろこのまま誰の目にも触れず、私にだけ微笑んでくれればいいのにとさえ考えます」
「あっ、あの」
「それに密室ですから、何をしても誰にも知られる事はありませんしね?」
 流れるような動きで手の甲に口づけを落とされ、かあっとクラリッサは顔を赤らめた。耳まで赤くなって、そわそわと不安そうにサイラスを見つめる。
 貴族の令嬢なら慣れているかもしれないこの行為も、ただの商人の娘であるクラリッサの心臓には悪すぎる。
 沸騰したのではと思うほど体中が熱くなり、恥ずかしくてどうしようもなく逃げたい衝動に駆られた。しかし手は握られたまま、何か言葉を紡ぐ事すら難しくサイラスの様子を窺うしかなかった。
 サイラスはそんな彼女を見つめ、満足そうに微笑む。
「ほら、私にとってとてもいい事ばかりでしょう」
「そんな……困ります」
「おや、やはり私は迷惑でしたか」
「いえっ! そうじゃなくてっ……そんな事を言われたら、期待してしまいます……」
 もしかして、自分は愛されているのではないかと。
 消え入りそうな声で呟き、俯くクラリッサはまだ顔を赤くしたまま、どこか寂しそうに瞳を揺らす。
 今は自分への気持ちを考えてもらっている身であり、彼が嫌悪感を抱いていないだろう事はわかる。
 それでも、一度は突き放された事実が、胸をナイフで刺したような痛みを与えてくる。それなのにそんな甘い言葉をかけられては、それに縋ってしまいたくなる。
 泣きそうな顔をしているだろうクラリッサを見つめたまま、サイラスは困ったようにはにかんだ。
「クラリッサ殿、情けない話ですが、私にとって貴女はまるで先生のようだと思うのです」
「え……? 先生、ですか?」
「貴女とこうして話せば話す程、貴女が私を想う気持ちがよく伝わってきます。それが恋なのだと、貴女自身が教えてくれる」
 柔らかい笑みにまた顔が熱くなる。そんなに自分はわかりやすいのかと思うと居た堪れない。
 落ち着きなく視線を彷徨わせるクラリッサは、ふと手を握る力が強まったのに気付き、彼を見つめた。
 秘色の瞳に映るぬくもりに、思わず息を飲む。
「もし、私が貴女から感じるそれが恋で間違いないのならば、きっと、私が貴女へ向けている気持ちも同じです」
 とくん、と甘い期待に胸が弾んだ。息苦しさを覚えるほど想いが膨らんで、溢れ出しそうになる。
 胸の熱にあてられて目頭が熱くなるのを感じながら、それでも彼をじっと見つめていると、彼はたおやかに微笑んだ。
「私は一人の女性として、貴女を愛しています」
 優しい声が耳朶を揺らして、胸に響く。強く胸を震わせるそれにじわじわと溜まった涙が零れ始めて、クラリッサは隠れるように手のひらで顔を覆った。
 悲しくはない。寂しくはない。
 それなのに、涙が溢れて止まらない。彼への愛しさと同じくらい溢れて、頬を濡らしている。
 無茶苦茶に目元を擦る手を掴まれ、引き寄せられる。力強い腕に包まれる事に何故か安堵して、また涙が溢れる。
 なんて悪循環。そう思っても、決してそれを嫌だとは思えなかった。
 大きな手のひらが頭を撫でるのを感じながら、クラリッサは精一杯彼を呼んだ。応えるように紡がれる自分の名が、堪らなく愛おしい。
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