魔術師の吐露

 コンコン、と控え目なノックが聞こえた。
 クラリッサは顔を上げ、分厚い本に向けていた視線を壁にかけられた時計に移す。ちょうど昼食を摂るには頃合の時間で、もうそんなに経っていたのかと正直驚いた。
 魔術室室長には、個人の研究室所有が認められている。
 最初から大勢見知らぬ人がいる研究室で一緒に研究するなど人見知りには耐えられなかったので、クラリッサは帰国してこの役職を与えられてからすぐに申請をし、よく引きこもった。
 今では部下とも随分打ち解けて同じ研究室を利用する事も増えたのだが、ここ最近はずっと個人の研究室にこもりきりだった。
 宿舎にも帰らず、ここに寝泊りをしている。研究者が集う魔術塔には職業柄寝泊りする者も多く、簡単なシャワールームもついているので何も困ることはなかった。
 引きこもってからというもの、食事は部下が持ってきてくれている。時間を忘れて没頭してしまうクラリッサを心配して、三食こうして研究室にまで運んできてくれているのだ。
 彼らはそれ以外の用事では滅多に呼ばず、気を遣われている自覚はクラリッサにもあった。申し訳なくは感じても引きこもる事をやめる気にはならず、最早今日が何日かもわからなくなっている。
 本に栞を挟み、扉へと近づく。鍵を開けて少しだけ扉を開くと、バターのいい香りがした。
「こんにちは、クラリッサ殿」
 にこりと微笑む男を見て、クラリッサは短い悲鳴を上げて咄嗟に扉を閉めた。
 しかしすかさず隙間に彼の足が滑り込み、いくら押しても扉は完全に閉まらない。
 どくどくと強く心臓が脈打つのを感じながら、クラリッサは扉に背をつけて懸命に開けまいとした。
 何故彼が昼食が乗った盆を持っていて、何故彼がここにいるのか。パニックに陥った頭で必死に考えるも答えは出ず、とにかく彼の前から逃げたい一心で扉を押さえつけた。
 すると背後から溜息が落ちるのが微かに聞こえ、知らず体が強張る。
「……あの、足が痛いのですが」
「えっ!? あっ、も、申し訳ありませ――」
 確かにこんなに押したら、挟まれた足は堪らない。
 慌てて扉を開けようと扉の前からどいた瞬間、彼はその扉を開けて今度は中に身を滑り込ませた。パタン、と虚しく彼の背後で扉が閉まる。
 袋の中に追い詰められた鼠が、クラリッサの頭の中で助けを求めて必死に叫んだ。助けてやりたいのは山々だが、今は自分が助けを求めたい気持ちで一杯だ。
 青褪めたクラリッサを見下ろし、サイラスは柔らかく微笑んだ。
「騙まし討ちのような真似をして申し訳ありません。普通に訪ねても出てきてくれそうにはありませんでしたので」
 どうぞ、と差し出された盆にはこんがり焼けたパンが乗っている。
 迷ったもののおずおずと受け取ったクラリッサは、先程まで本を読んでいた机に置いた。こうして彼と顔をあわせると、どういう仕組みかわからないが幾分パニックも落ち着いてきた。
 彼はクラリッサが引きこもっていると聞いて来たのだ。それは間違いないだろう。
 しかし、どうして彼が自分なんかを気にする必要があるのか。それがわからない。
 本や研究器具で溢れかえった部屋を見られるのを恥ずかしく思いつつ、未だ突っ立ったままのサイラスに唯一の椅子を勧めたが断られた。仕方なく、クラリッサはその椅子に腰を下ろす。
 気まずい空気がゆったりと流れる中、先に口を開いたのはサイラスだった。
「私は人の機微に疎いので、きっと貴女を傷つけてしまうと思うのですが……、どうして引きこもってらっしゃるのか、お聞きしてもよろしいですか?」
 僅かに固い声を聞いて、びくりと肩が震える。
 クラリッサはやっぱりと思うのと同時、涙がこみ上げるのがわかった。秘色の瞳が見開くのが見えて、困らせないようにと顔に力を入れる。
 必死に守ってきた檻の鍵が呆気なく壊された気分だ。自分を保つ為に引きこもった檻の中に勝手に押し入ってきて、外へ引きずり出そうとする。恐怖と、言いようのない怒りに似た感情が膨れ上がった。
 胸が熱くなって、鼻の奥がつうんとする。それでも顔をそらさなかったのは、最早意地だった。
「だって、フィオナは私の所為であんな怪我をしたのに! 平気でいられる訳がないでしょう!?」
「それは……」
「私がもっと強力な魔石を作っていれば……っ、私が、もっとちゃんとしていれば……!」
 クラリッサにとって、フィオナは大切な幼馴染で、恩人で、憧れだった。
 明るくて優しい、強い女の子。彼女が何かに屈する姿など見た事はなかったし、想像もできなかった。
 だが、彼女達と出会ってから一年が経った頃、毎日顔をあわせた彼女が姿を見せない日があった。
 ダレルだけが遊びに誘いに来て、不安になって彼女の家へ行こうとすると止められた。その時、初めてフィオナの両親の事を知らされた。それは、以前噂で聞いた事のある事件に他ならなかった。
 彼女の家に遊びに行った時に両親が見当たらないのは気付いていたが、クラリッサの両親と同じように共働きなのだと思っていた。いつも無邪気に笑っているから、彼女の両親が既に他界しているなど思いもしなかったのだ。
 今でも、フィオナは両親の命日には必ず一人で墓参りをする。
 他の日はダレルやクラリッサも一緒に墓参りをするが、命日だけは絶対に誰も一緒に来させない。拒む事を知らない彼女が無意識に拒むのだ。
 明るくて優しい幼馴染が、唯一弱さを見せる日。
 それを、クラリッサはよく知っていた。知っていたのに。
「フィオナなら何があっても大丈夫だって、信じてるなんて言い訳でっ……、結局、私はフィオナに頼ってばかりで、何もしなかった……っ!」
 フィオナはとても眩しくて、何度も自分を救ってくれた。どんなに大怪我をしても、どんな窮地に陥っても、彼女は絶対に負けなかった。
 だから慢心していた。それを信頼だと、勘違いしていた。
 寂れた城で彼女に向かって剣が振り下ろされた瞬間、頭の中が真っ白になった。
 駆けつけても、結局彼女が無事に解決してしまう。どうせ彼女は笑って無事に帰ってくる。
 どこかでそう思っている自分を見つけて、酷く自分が汚らわしいものに思えた。
「私、きっと、今まであの子を本当に心配した事なんてない……大切なのに、大好きなのに、何があっても心配しなかったなんて、その気持ちがすごく軽く感じて……っ、こんなんじゃ、フィオナにあわせる顔なんてない……」
 堪えていた涙はとっくに頬を伝って、服に落ちては染みを作る。
 情けない姿を晒すのはやっぱり嫌で俯くと、膝の上で拳を作る手を突然掴まれ、ぐっと引かれた。立ち上がれば、ふわりと優しいぬくもりに包まれる。
 反射的に強張った体を落ち着かせるように、大きな手のひらが背を撫でた。
「……サイラス、様……?」
「……申し訳ありません。不謹慎だとは思うのですが、貴女を抱き締めたいと思ってしまって……思ったら、体が勝手に……」
 耳元に降ってくる声音に戸惑いが滲んでいるのがわかる。くすぐったくて身を捩れば、抱き締める腕の力が強まった。
 うるさく鳴り響く鼓動が伝わってしまいそうで、恐い。なんとか表情を窺えないかと思っても、彼はクラリッサの肩に顔を埋めてしまった。
「私には、貴女の心を軽くさせられるような言葉は思いつきません……でも、弱った貴女を放っておく事もできそうにない」
 切ない声が耳朶を震わせる。
 誘われるようにまた涙が溢れ出して、クラリッサはサイラスに必死にしがみついた。
「……私達は似ているのだから、情けないのも弱いのも、お互い様です。貴女が幼馴染に頼れない時、一人で泣いている時……私は、貴女を支える事はできないでしょうか」
 優しく気遣うような声なのに、どこか苦しそうなそれは胸に強く響き、クラリッサは最早答える事はできなかった。
 ぬくもりに包まれる安心感と愛しさと、たくさんの切なさが涙となって彼の服を濡らす。
 必死に嗚咽を堪えようとする彼女を、サイラスはただ抱き締めていた。
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