キスと過去

 名残惜しそうに離れた唇。大きな手のひらは頬を包み、優しく撫でるその仕種から彼の気持ちが伝わってくるようだった。
 幼馴染達に甘やかされている自覚はあった。自分があまり多くを知らない事も理解している。
 そんなフィオナでも、この行為が意味する事は知っている。
「――好きだ、フィオナ」
 低く掠れた声に、心臓がどくりと強く脈を打った。
 目を見開いたまま、フィオナは目の前の男を見つめるしかない。
 ――誰だ、こいつは。
 二十年も一緒にいた幼馴染なのに、彼のこんな表情は初めて見る。
 熱を孕んだ瞳。僅かに朱がさした頬。
 うっとりと、けれど苦しそうに自分を見つめるのは、自分が知る幼馴染ではない。
 目の前にいるのは、確かに男だった。
「ずっと、ずっと好きなんだ。フィオナ。お前が何よりも大切だ」
「ダレ、ル……」
「これは嘘でも冗談でもない。お前に対して申し訳ないと思う気持ちは、確かにある。償いたいという気持ちも。だが、お前を想っているのも本当だ。二十年もお前の傍にいたのは、ただお前が好きだからだ」
 ダレルは、まるで子供に言い聞かせるように想いを告げる。彼の瞳には迷子のような不安そうな顔をした自分が映っていて、何故だか泣きそうになった。
 体の奥で大きく心音が響いて、沸騰したように顔が熱い。混乱して、恥ずかしくて、結局何もできないまま彼から視線をそらす事すらできない。
 そんな彼女を見つめて、ダレルはどこか困ったように眉尻を下げた。
「お前が俺を男として見ていないのは知っている。お前が愛も恋もよくわかっていないのも、よく知っているつもりだ。それでも、一度考えてほしい」
 切なさが滲む声音に、フィオナはかろうじて頷いた。ここまで言われれば勘違いをする余地もない。
 ダレルは満足そうに笑むと、頬を撫でていた手でくしゃりと彼女の頭を撫でた。
「遅くなったが、無事でよかった」
「あ、ああ。……来てくれて、ありがとう」
「昔から、お前の面倒を見るのが俺達の役目だからな」
 すっかりいつも通りのダレルに少々困惑するも、知らなかった男がちゃんとよく知る幼馴染に戻り、フィオナは少しだけ安堵する。
 ダレルはちらと時計を見遣ると、彼女から手を離した。
「俺はお前の意識が戻った報告をしてそのまま仕事に戻るから、あらかたの状況はその内見張りの奴にでも聞け。呼ばない限り中に入らないよう、言いつけてある。落ち着いてから呼べばいい」
「っ……わ、わかった」
 してやったような顔をする幼馴染を恨めしい気持ちで見上げ、頬を擦る。手のひらに伝わる体温は明らかに異常で、今自分はどれだけ赤いのだろうと想像して、やめた。それだけで恥ずかしくてまた体温が上がってしまう。
 またな、と出て行った背中を見送り、フィオナは溜息を吐いた。柔らかい寝台に沈んだまま、思い浮かぶのはやはりダレルの事だ。
 彼が自分を大切にしてくれているのは知っていたが、まさかそれが色恋の類だとは思いもしなかった。
 ダレルは責任感が人一倍強く、ボールドウィン一家の中でも最もフィオナを気にかけてくれていた。
 彼らはもう十六年もの間、あの日旅行になど行かなければ二人は怪我はしても死ななかっただろうと悔やんでいる。そんなどうにもならない後悔も、直後に比べれば薄れているようだが、今でも少なからず気にしているのは気付いていた。
 その中で堅物なダレルは唯一、正面きってフィオナに侘びを入れた。
 彼らを恨むのはお門違いであるし、そもそも彼らを憎いと思った事すらない。だから気にする事はないと言ったのだが、彼がそれで納得した様子はなかった。
 ダレルがフィオナ自身を好意的に思って一緒にいる事は理解していたが、そういう事もあって、その中には責任感や後悔といった物が多く含まれているのだと思っていた。――思っていたのに。
「……一応私でも、ファーストキスとか気になるんだけどなあ」
 そっと唇に触れる。ついさっきまで重なっていた唇を思い出して、また頬に熱が集まるのがわかった。
 しかしふと、フィオナは不思議に思った。
 思い出す口づけの感触を、何故か懐かしいと感じている自分がいる。その自分を見つけた時、眉を寄せずにはいられなかった。
 わざわざ確認するまでもないが、今まで男性経験など皆無だ。
 ダレルは堅物で生真面目なので以前にキスをしたなんて事がある筈はないし、両親も額にキスはしても唇にされた事は一度もなかった。
 今までにキスなどした事はない筈なのだ。それなのに、自分はどこかでこの感触や、思い出して泣きたくなるような切なさを知っている。
「私は……何か、大事な事を忘れてる……?」
 確証はない。
 だけど、私は昔誰かと口づけを交わした。――一体、誰と?
 フィオナはぐるぐると今までに関わった事のある人物を思い浮かべるが、全く見当がつかない。
 わからない。だが、思い出さなければいけない。思い出せと誰かが頭の中で叫ぶ。
『――……フィオナ』
 まるで宝物のように紡がれた自分の名前が、耳の奥で熱になって響いた。
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