勇者の目覚め

 暗く、冷たい石で囲まれた部屋の中。
 誰にも届かない叫びを上げて、泣いて、泣いて。決して届く事のない両親に手を伸ばして、絶望した。
 傷ついた手足は痛み、冬でもないのに体が震える。泣き咽ぶ喉は熱く、腫れた瞼は重たかった。
 暗闇の中で一体どれだけの時間を過ごしたのか、微かな光を感じて重たい瞼を開けた。
どうやら、いつの間にか泣き疲れて眠ってしまったらしかった。
 必死に、けれど優しく自分の名前を呼ぶ声。
 引かれるように顔を上げても、暗闇に慣れた目ではよく見えない。目を細めて、自分を呼ぶ人物を見つめる。
 まるで光を背負ったような彼を認めた瞬間、酷く安堵して――フィオナは、こちらへ差し伸べられた手のひらに自らの手を重ねた。


  *


 水面をたゆたうような心地の中に、僅かに痛みが混じる。引きずられるように意識が浮上するのを感じた。
 呻くような声が零れる。傍らで誰かが呼ぶ声がして、フィオナは瞼を持ち上げた。
 僅かにかすんだ視界の中で、傷ついた左手を包み込むように握る彼を見つけた。
「――……エリオット……?」
 無意識の内に掠れた声が紡いだ名に、彼の萌黄色の瞳が見開いたのがわかった。
 ぼんやりとしたエメラルドの瞳は何度か瞬きを繰り返し、ようやく彼の姿を認識し始める。
 若緑の髪は短く整えられ、爽やかな印象になる筈なのにいつも刻まれている眉間の皺がそれを台無しにしている。しかし今はその皺もなく、驚きに染まった彼の顔をじっと見つめた。
 そうすると懐かしい安堵が蘇ってくるようで、フィオナは困ったように眉を下げて笑う。
「……おはよう、ダレル。またお前だったな」
「……おはよう。またって、何の話だ?」
 乾いた喉から出る声は掠れ、話し辛いが聞き取り辛くもあるだろう。ダレルはあっという間に先程の表情を消して、普段通り、いや幾らか渋い顔をしてフィオナに問いかけた。
 フィオナは彼のその表情の理由がわからず首を傾げたものの、すぐに思い当たる節があるのを思い出した。
 魔王の城でクラリッサに意識を奪われる前、彼には酷く叱られた。きっとその事だろう。
 そう自己完結をして、苦笑を浮かべる。
「父さん達が死んだ日、お前が私を見つけてくれただろ?」
「ああ……」
「あの時の夢を見てたみたいでさ。あの時と同じだと思って」
 十六年前、騒ぎに気付いた近隣住民が治安部と共にフィオナの家へ押し入った時、アルフォード夫妻は既に息絶えていた。魔物は治安部によって倒されはすれど、彼らの命が戻ってきはしない。
 家の最奥の部屋でまるで寄り添うように床に伏していたジェフとモニカの姿に誰もが悲しんだが、一つ気にかかる事があった。二人の愛娘、フィオナの行方である。
 家中を捜しても見当たらず、こんな早い内から遊びに出ている訳はないとは知りながら、思いつく限りの場所を捜し回った。しかし見つからない。
 まさか魔物に食われたのでは、と誰かが零した時、旅行に行っていた筈のボールドウィン一家が血相を変えて戻ってきた。彼らがとても親しかったのを知っている隣人らが、彼らの元に知らせを寄越したのだ。
 二人の亡骸は、一先ずといった様子で発見された部屋に並んで横たえられていた。
 彼らを見たデイジーは泣き崩れ、ダンも堪えるように震えていた。デイジーに抱き締められたデイヴは涙を流しながらも母の背を擦ってやり、ダレルはただ呆然としているだけだった。
 そんな彼らに、治安部の男がフィオナがどこにもいないのだと言う。
 それを聞いたデイジーは更に激しく泣き咽び、父と長男が二人がかりで落ち着けようとする中、ダレルは死して尚どこか幸せそうな表情をしているジェフ達を見た。
 痛かった筈で、苦しかった筈だ。しかし、彼らの表情にそれらは微塵も滲んでいなかった。
 ダレルはどこか確信めいたものを感じて、赤い血溜まりに近づいた。
 恐ろしく感じてもいい程のその血に迷いなく触れた子供に、大人達の叱責とも悲鳴ともわからない声が聞こえた。まだ完全に乾ききっていない血は鉄臭く、ぬめりと指に絡みつく。
 以前、フィオナがこの部屋の下にはもう一つ部屋があるのだと言っていた。勝手に入ってはいけないと言われているから、今度一緒に入ろうと無邪気に笑っていたのだ。
 どこからどうやって入るかは聞かなかったが、床を撫でるように探っていると指に引っかかる窪みがあった。それを引くと、正方形に切り取られた床板が持ち上がる。
 驚く周囲を無視して、更に床下にある石の扉、あるいは蓋を開けると、階段に縋るようにして眠る少女がいた。
 呼びかけると、輝く金髪を埃や血で汚した少女が、ぼんやりと自分を見つめる。
 絶望の色をした瞳に酷く胸が痛んだ事を、ダレルは今でも覚えていた。
「ダレルは命の恩人だよ」
 さすがに自分が自由に動ける身ではないと理解しているのだろう。寝台に大人しく横たわったまま、フィオナが屈託なく笑う。
 それにまた胸がきりきりと悲鳴を上げるのを感じていると、フィオナが一度不思議そうに室内を見回した。
「ダレルだけか? エリオットは?」
「……殿下がどうかしたのか?」
「あ、ああ……無傷で帰る約束も守れなかったし、真っ先に怒られるもんだと思ってたから」
 たとえ約束がなくても、彼ならずっと見張っていそうなものだ。そうして容態を気にしながら説教をして、謝って、ちゃんと帰ってきてくれてありがとうとでも言うのだろう。なんとなく、そんな気がした。
 しかしその予想は外れ、少なからず落胆している自分がいる。それがなんだか可笑しくて、フィオナはついつい苦笑した。
 するとぎしりと傍らから音がして、彼女の顔に陰がさす。
 仕事に戻るのだろうかとダレルの方を見て、思いの外彼との距離が近い事に驚いて息が詰まった。武骨な手が優しく頬を包み、唇に柔らかい熱が与えられる。
 何が起きているのか、理解できなかった。
 目を見開いたまま何もできずにいると、唇に触れた熱が離れる。
「――好きだ、フィオナ」
 離れた唇が紡いだ声は低く、強く胸を震わせた。
Copyright (c) 2012-2013 Ao kishibe All rights reserved.
 
inserted by FC2 system