傷と爪痕

 魔術塔の最上階は、魔術の試行や調査をする為に一種の訓練スペースのようなだだっ広い空間になっている。
 本来ほとんど魔術塔にこもりきりになっている魔術師はサリスフィア、そして城下町へと送り込まれており、現在この塔に残っているのは全体の三分の一程度だった。そしてその中のほとんどが、ここ最上階で息を殺すように控えていた。
 魔術師だけではない。医師、薬剤師、兵士、そして王子までが集まり、中央を睨むように見つめていた。
 エリオットは腕を組み、苛立ちや不安をじっと堪える。
 誰もいないならまだしも、人前で落ち着きなくうろうろ動き回ったりするなどというみっともない真似が許される立場ではない。この場を取り仕切り、彼らを統率する者として極力取り乱してはいけないのだ。
 エリオットの傍には側近のサイラスが控え、時折気遣わしげにエリオットを見てはすぐに中央に目を向ける。騒ぎが騒ぎなので、さすがに国王も王妃も宰相もこの場にいないのだから、少しくらいはと思ってもこの男がそれに甘える訳がない。サイラスは心中で息を吐いた。
 ピアノ線のように張り詰めた空気は息苦しさすら感じさせ、誰も決して口を開こうとはしない。
 誰かの懐中時計が時を刻む音ばかりが静かに響く中――突如、皆が見つめる中央部が青白い光を放ち始めた。
 それをきっかけに、その場の空気が僅かに変わる。
 期待、緊張、不安――それらの感情が入り混じった彼らの視線を集めた光が収まる頃、その場には数人の人影が現れていた。
 送り込んだ人数より何人か少ないようだが、しっかりと自分の足で立つ兵士や魔術師達の姿に誰もがほっと胸を撫で下ろした。
 しかしそれも束の間、ダレルの怒声に似た声が響き渡る。
「誰か、担架を! 早く!!」
 彼の腕は一人の女を抱えており、それこそまさに彼らが救出に向かったフィオナだった。
 フィオナを横抱きにするなど絶対に叫んで抵抗しそうなものだが、彼女は意識がないらしくぴくりとも動かない。
 ダレルの傍らで必死にクラリッサが押さえている腹部からは赤い液体が滲み、時々それがぽたりと床に落ちた。クラリッサが険しい面持ちで回復魔術を施しているのはわかるが、傷が回復していくようには見えない。
 そんなフィオナを見て、エリオットは駆け寄るどころか声を上げる事すらできなかった。
 足に根が生えたように動かず、ただ気持ち悪い程心臓が蠢き、音を立てるだけ。胸の奥が急激に冷えていくのがわかった。
 あらかじめ用意してあった担架にフィオナは横たえられ、兵士達によって速やかに運ばれていく。
 ダレルとクラリッサは一瞬目配せをして、すぐに別れた。
 フィオナの方へついていったクラリッサに背を向け、ダレルは早足でエリオットに歩み寄る。服を赤く染めた彼はエリオットの前まで来ると、素早く礼をとった。その顔は、やはりどこか蒼白い。
「殿下、只今戻りました」
「……人数が減っているようだが」
「数名は魔王城に残り、形ばかりにはなりそうですが調査を行わせております。フィオナ・アルフォードを除き、全員無傷です」
 淡々と報告をしようとするその声は憤りを隠しきれておらず、何故かエリオットは少しだけ体の強張りが解れるのを感じた。恐れているのは自分だけではないと安堵したのかもしれない。
 しかしそれでも、彼女のあの様子を見ては本当に安堵する事などできない。
 エリオットは何も言わずにダレルの声に集中した。
「フィオナは、我々が駆けつけた時には既にあの手負い……フィオナを殺そうとしていた男が一名いましたが、魔王ではなく、魔王の落胤との事でした」
「落胤……!?」
「詳細は不明です。男は分が悪いと見て逃亡、馬鹿に止められた所為で取り逃がしました。次は果たし状を送って来いなどと馬鹿げた事を言っていましたので、今後また接触がある可能性も」
 いよいよ苛立ちが全面に出てきたダレルの報告に、エリオットは額を押さえた。今すぐに馬鹿と怒鳴ってやりたい衝動にかられる。
 しかし、今はその怒鳴る相手の意識がない。彼女の容態を尋ねると、ダレルは珍しく一度言葉に詰まってから、何かを振り切るように口を開いた。
「左手の手のひらを剣で貫かれ、左肩から二の腕にかけて大きく負傷。右腕骨折、右脇腹負傷、その他の傷はそれらに比べればどうって事はありません。……ただ、脇腹の方は抉られており、内臓も損傷しています」
「――っ」
「しかし、クラリッサによれば治らない傷ではないとの事。時間はかかりますが、命に別状はないでしょう。クラリッサが暫くは目覚めないようにしています」
 ダレルの瞳が決して不安に揺れていないのを見て、エリオットはようやく本当に安堵する事ができた。
 この男は決して嘘をつかない。そして、どんな些細な妥協も許さない。
 その彼がこれだけ断言するのだから、フィオナは助かるのだ。
 それにクラリッサがついているのなら安心だ。医学の知識があるのかは知らないが、魔術でいくらでもサポートできるだろう。何より、フィオナを眠らせたのはいい判断である。
「……それなら、痛みに苦しまなくて済むな」
 よかった、と心から呟く。
 本当なら自分の手で助けてやりたかった。しかし、自分にはその術がない。それが悔しくて、情けない。
 それでも少しでも彼女の苦痛が和らぐのなら、それがエリオットの救いになりえた。
 穏やかな表情を浮かべるエリオットを見据え、ダレルは僅かに眉間に皺を寄せた。
 その萌黄色の瞳を見つめ返し、エリオットが問いかける。
「その男の人相はわかるな? すぐに指名手配する。ダレル、悪いがもう少し付き合ってもらうぞ」
「私は構いませんが……フィオナが何を言うか」
「あいつが自分で決着をつけたいなら勝手にすればいい。だがな、街を焼き住民の混乱させた件は、いくら勇者でも我儘は聞かん。俺の国で好き勝手した代償はきっちり取ってもらう」
 ダレルは、つい唾を飲んだ。宝石のような瞳が今までに見た事ないほど冷たく、鋭く光ったからだ。
 彼がこれ程怒りを露わにする姿は初めて見た。いつも彼はどこか飄々としていて、怒っていてもそこにはまだ人間味があった。
 だが、今はどうだ。まるで感情のない人形のように静かに憤る姿は、ぞっとするものがある。
 行くぞと踵を返したエリオットの後を、サイラスに続きダレルも追いかける。
 これが国を背負う背中なのかと、どこか納得したようなものを感じながら。
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