幕引き
剣が振り下ろされる。
それを見届けて目を閉じようとしたフィオナは、次の瞬間、その目を見張った。
剣を握ったジャイルズの手が、突如炎に飲み込まれたからだ。
ぴた、と喉元で止まった剣。
赤い瞳が動揺ではなく怪訝そうに細められるのと同時、慌しく足音が近づいているのに気がついた。
「――雷虎よ、聞け! 我が捧ぐは走狗、血肉を喰らい、龍を穿て!」
凛とした声が響いたかと思えば、ジャイルズに向かって電撃が飛ぶ。
胴を狙ったそれに、咄嗟に飛び退いたジャイルズが舌打ちしたのが聞こえた。
数歩分距離をとった彼を追うように電撃が襲い、その間に入り口から駆け込んできた者達にフィオナは囲まれてしまった。
フィオナは精一杯首を動かして、自分を取り囲む人物を見る。
若緑の髪の男は鋭くジャイルズを睨みつけ、彼らの一番前に立った。
銀色の瞳をした女は、フィオナを見て顔を青ざめさせるとすぐさま服を破って布を押し付け、先程の詠唱した声とは思えないほど弱々しくフィオナを呼ぶ。
二人の他にも、フィオナの周りにいるのは皆、見知った兵士や魔術師だった。
驚きで声も出せないでいるフィオナの前で、萌黄色の瞳を細めた男――ダレルは剣の切先をまっすぐにジャイルズに向けた。
「……魔王、ではないな。何者だ?」
「……魔王の、息子だよ……」
ダレルの問いに答えたのは、ジャイルズではなくフィオナだった。
一人の兵士に左手を貫く剣を抜いてもらい、フィオナが呻きながら起き上がる。剣が抜けた事で左手からも血が零れだし、動けば脇腹の傷が重く痛みながら血を吐き出した。
傍らに膝をついたクラリッサが寝ているように言うが、関係なかった。
僅かながらダレル達に動揺が走る様を諦観し、ジャイルズは酷薄そうに口元を歪める。
「まさかこんなに早くここに来るとは思わなかった。こんな状況でただの人間が来る訳もないだろうし、さすがに分が悪いか。命拾いしたな、勇者よ」
「ああ……全くだ……」
腹部を押さえ、なんとか座るまでに至ったフィオナが、応えるように皮肉っぽく笑んだ。
その笑みをちらと一瞥し、ダレルが怒気と殺気入り混じるままに声をかける。
「フィオナ、お前はじっと……」
「……お前らは、手を出すな」
はっきりと、強く遮ったフィオナにダレルが眉間に皺を刻んだ。ジャイルズから意識はそらさずに、フィオナを睨み付ける。
しかし彼が何かを怒鳴る前に、フィオナは緩く首を振った。
「もう、何もしないから……あいつは、私に用があるんだ」
この手負いではいくら拘束が解かれても、戦うどころか一人で立つ事もままならない。何もできない体で無茶はしないと告げ、ジャイルズを見据えた。
赤い双眸を睨むほど強く見つめ、フィオナは浅い呼吸を無理矢理に整える。
「邪魔が入って悪いな……ちょうどいい、痛み分けって事で……お前の恨みも私の恨みも、無しにしないか……」
「……馬鹿が。そんな簡単に納得できると思うか? 俺は既に、お前の顔も名も居場所も知っている。いつでもお前の首を取りに行くぞ」
「ああ、恨みが残るなら来ればいい……、いつでもな」
ダレルとクラリッサが叱責するように名前を呼ぶが、フィオナは耳を傾けない。
兵士や魔術師達の困惑も全て承知した上で、ジャイルズを見つめ続ける。その赤く塗れた口元に、笑みすら浮かべて。
「ただ、今回のように、他人を巻き込むな……。果たし状でも何でも、送りつけてくればいい……」
痛みに抗う事を拒絶するように、意識が沈もうとして視界が霞む。霞んだ世界で赤い瞳が僅かに見開くのを見た。
耳障りな呼吸音を煩わしく思いながら、彼の出かたを待っていると、ジャイルズはぽつりと呟く。
「……お前、自分は勇者なんかじゃないと言ったな」
「あ、ああ……?」
笑みを消し、無表情を貼り付けるジャイルズにフィオナは僅かに首を傾げた。
感情の読めない表情のまま、ジャイルズは握っていた剣を床に突き立てる。それからふっと零れたのは、呆れたような、諦めたような笑み。
「充分、他人を守ろうとしているじゃないか……」
掠れた声で呟くと、ジャイルズは地面に右手をつく。
途端に彼を赤紫の光が包み、空間が歪むのがわかった。
「なっ、待て……!」
「ダレル!」
咄嗟に阻止しようと動いたダレルをフィオナが呼び、制止をかけた。
それでも止めようとしたダレルだったが、無理に声を張り上げた事でフィオナががくりと崩れるのを見て、踏み出した足が止まる。
その間に、ジャイルズは遷移魔術で姿を消してしまった。
敵は去ったのだ。そうほっと兵士らが安堵の息を吐くが、彼らはまだ気付いていなかった。本当の鬼が目の前にいる事に。
ゆっくりと振り返ったダレルは、眉間に皺を寄せ、苦々しい所か忌々しそうにフィオナを睨み付ける。
「何故逃がした! あいつが街を焼き、お前をさらったんだろう!? 魔王の子なら尚更……!」
「あいつ……、母親想いの、いい奴なんだよ……」
「俺が言っているのはそういう事じゃない!」
乾いた笑みを浮かべるフィオナに、ダレルの怒号が飛ぶ。
いつもなら簡単に受け流せるそれを受け流せなかったのは、彼の表情がただ怒りに染まっているだけではなかったからだ。
ダレルは苦しそうに顔を歪め、激情に染まった瞳でフィオナを見下ろしていた。
「お前は昔からそうだ! どんな事をされても受け入れて、俺に守らせてもくれない! 守らせる所か、償いも何もさせてくれない! 頼むからっ……頼むから、人を恨む事を覚えてくれ……」
最早それは怒声ではなく、悲痛な叫びだった。
無傷のはずの胸が酷く痛み、フィオナもつられるように顔を歪めるしかない。
ずっと彼が何を考えているかなど知っている。それこそ、昔から。
しかし彼が何も言わないのをいい事に、ずっと知らないふりを貫いてきた。だからこそ、何を言えばいいのかわからない。
沈黙が満ちたその空間。押し黙り視線を落としたフィオナを支えたままのクラリッサは、静かに傍に立つ兵士に声をかけた。
「……フィオナの剣を取ってきてもらえますか?」
「え? は、はい!」
「ここで治療するより戻ってからの方がいい。すぐに王城に戻ります」
普段の彼女からは考えられないほど淡々とした声音に、フィオナはクラリッサを見る。
しかしクラリッサは俯き、その表情を窺い知る事はできなかった。
つい声をかけると、それを遮るようにクラリッサが名前を呼ぶ。
「フィオナ……貴女は重傷なのよ。気力でなんとか繋いでいる状態なのでしょう?」
「わ、私は……」
「そう言っても大人しくしてくれないのは知ってるわ。……だから、ごめんなさい」
白い手のひらが目の前に翳された。途端にぐらりと視界が揺れて、思考が闇に飲まれる。
その小さな手が僅かに震えていたような気がしたが――意識を手放したフィオナには、確認する事ができなかった。
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