戦意と殺意

 銀色の刃が煌く。
 一歩下がってそれを回避したジャイルズの耳に、目の前をかすめた剣が空を切る音が微かに届いた。
 尚も懐に入り込もうと迫るフィオナに向けて、ジャイルズは手掌を掲げる。
 本能が警鐘を鳴らし飛び退くと、彼の手から火の玉が放たれフィオナのすぐ足元に食らいついた。
 フィオナは不服そうにジャイルズを睨む。
「詠唱なしとかずるいだろ」
「魔王だからな。魔術は得意だ」
 鼻で笑いながら、しかしジャイルズは内心面白くない気持ちで一杯だった。
 普通、魔術を発動するには詠唱が必要だ。しかしその術者の魔力によっては短縮、または省略することも可能である。威力は多少なりとも弱まるが、詠唱している間に距離を取られたり防御されるよりはマシだ。
 しかし、だ。この女、さっきから少しでも魔術を発動する為の動作を行えば、すぐに察知して距離を取る。
 力勝負に不向きな女剣士にはよくある俊敏性を武器にした戦い方をするくせに、剣撃はそこいらの男よりは遥かに重く、ちょこまかとまたよく動く。炎の中でへばっていたのは本当にこの女かと思うほどだ。
「ずっと最強の魔術師と一緒にいたんだ。対抗はできなくても、かわすくらいならできる」
 不敵な笑みを浮かべ、フィオナはぐっと手のひらで頬を伝う汗を拭った。
 元々、フィオナ自身は接近戦が得意だ。それはそもそも素手で喧嘩ばかりしていたからなのだろうが、この男相手に得意の接近戦に持ち込むのは骨が折れるばかりかリスクも高い。こういう時に後方から助けてくれるのがクラリッサなのだが、今は彼女はいない。
 同じように僅かに呼吸を乱したジャイルズを見据え、体力回復の呪文を唱えた。ただでさえ不器用なフィオナには、詠唱を省くことも短縮することもできない。
 どうしたものかと頭の片隅で考えていると、ジャイルズが皮肉るように笑った。
「あんな石を身につけているから、魔術なんぞ使えないんだと思っていた」
「隠しても無駄だから言うけど、使えるのは回復系だけだ。攻撃しようとすれば暴走して自分まで怪我するからな」
「下手くそ」
「そんなの百も承知だ」
 互いに挑発するように笑みを浮かべ、じりじりと間合いを詰める。
 先に動いたのはジャイルズだった。床を蹴り一息に迫り、剣を振り上げる。
 すぐさまフィオナが薙ぎ払うように剣を振るおうとして、一瞬、彼の瞳がフィオナから右へとそれた。
 それを見逃さなかったフィオナは右に僅かに意識を向け、初動が遅れてしまった。頭上から降ってきた剣を慌てて受け止め、柄を両手で握り踏ん張る。
 ジャイルズはにやりと笑った。
「素晴らしい反応だ。だが勇者よ、それが仇になったな」
 上から圧し掛かるように力を加えてくる彼に、フィオナは強く歯を噛み締めた。
 体格は明らかにジャイルズが有利だ。こんな事をされては、弾き返すどころか堪えるのもそう長くもたない。
 ぎりぎりと黒と白の刃が不快な声を上げる。
 後先考えずに突っ走るからこういう事になるんだと、何度もダレルに注意されたことを思い出した。
 フィオナはぐっと足に力を入れると、ジャイルズの脇腹に渾身の蹴りを食らわせた。僅かに力が緩んだ隙に剣を弾き、後方に距離をとる。
 肩を上下させてなんとか呼吸を整えようとすると、影が差したのに気がついてハッと飛び退いた。
「――くっ……」
「……惜しいな」
 剣を振り下ろしたままの姿勢からゆっくり構えなおし、ジャイルズが残念そうに呟く。
 対するフィオナは彼を鋭く睨みつけ、右手で握る剣をしっかりとジャイルズに向けた。庇うように後ろに下げた左肩から二の腕は大きく切られ、赤い血が溢れては重力に従って床に落ちていく。
 油断した。旅の中だったなら絶対にしなかった油断だ。
 帰国してからの半年間、決して怠けていた訳ではない。それでもあの城にいる兵士たちは、呼吸を整えている間に攻撃を仕掛けてきたりはしなかった。それで勝っても意味がないと笑って言う彼らとばかり剣を交えている内に、根本的な部分が鈍ってしまったのだろう。
 フィオナはちらりと傷口を一瞥する。この分では左腕はまともに使えない。
 魔術で治してしまってもいいが、そもそも魔力があるといってもたかが知れている。残りの魔力をフルに使えば治せるかもしれないが、それよりは温存して後で使ったほうがいいだろう。
 堪らず舌を打つと、ジャイルズが再び切り込んできた。咄嗟にかわしお返しとばかりに剣を振るうが、ジャイルズはそれを受け止めて口元を歪める。
「考え事とは余裕だな」
 赤い瞳に揺らめく殺意が濃くなったのを感じ、ぞくりと背筋が震えた。
 一旦退けと脳が命じるままに後方に飛んだフィオナを見て、ジャイルズはその笑みを深める。
 途端に着地地点の石の床が淡い光を放ち、フィオナの顔からさっと血の気が引いた。今からそこを避ける事などできない。
 フィオナの足が光の円に触れた瞬間、床から石の槍が現れ、一直線に彼女を襲った。
 転がるように床に投げ出されたフィオナの体から、じわりと血が溢れ床に広がり始める。
 その様を見下ろすジャイルズの瞳は、やはりどこまでも冷たかった。
「……全く、たいした動きだ」
 床に転がったフィオナは脇腹から血を流し、浅い呼吸を繰り返しながら彼を見上げる。
 本来なら対象を串刺しにする一撃必殺の魔術を、彼女はぎりぎりの所で体を捩り致命傷を避けたのだ。その一瞬の判断力と瞬発力には、感心を通り越して恐ろしさすら感じた。
 それでも、重傷には違いない。これでは思うように動けないどころか、このままでは命すら危ぶまれる。
 だというのに、エメラルドの瞳は戦意を失わない。
 そればかりか剣を握る手にまた力が込められるのを見て、ジャイルズは彼女の右腕を踏みつけた。
「ぅあ……ッ」
「……戦意はあるが殺意はない。お前の力量は認めるが、それじゃ俺に勝てる訳がない」
 踏み躙られた右腕は痛みで痺れ、手に力が入らなくなる。
 なんとかどけようと伸ばした左手は、煩わしそうに眉を寄せたジャイルズの剣が刺さった。黒い剣に貫かれた手のひらが床に縫い付けられる。
 痛みに息を止めた一瞬、今度は右腕から嫌な音が鳴った。
「――ああぁあぁああっ!!」
 玉座の間にフィオナの絶叫が響く。
 ようやくジャイルズがどけた足の下では、白い筈の腕が赤黒く腫れていた。
 これで大人しくなるか。呻き悶えるフィオナの手は既に剣を手放し、最早折れた手では握ることすら叶わないだろう。
 フィオナはきつく唇を噛み、転がった剣を拾い上げるジャイルズを睨み付ける。
 しかしジャイルズは憎悪に似た色を映す瞳を一笑に付し、剣をフィオナの首のすぐ横に突きたてた。かすめた肌が切れ、一筋の赤い線が入る。
 こくりと鳴った喉には、冷たい刃の感触。
「お前の負けだ。勇者」
 仄暗く光る赤い瞳を見据えながら、フィオナはそっと力を抜いた。
 魔王討伐を命じられてから、死にかけた事は何度もあった。しかしこれほど明確に、自分の死を感じたのは初めてだ。
 しかも自分の命を奪おうとしているのが、エリオットに貰った剣だとは。使いやすく手入れも念入りにしていたというのに、刃が所々欠けてしまっている。
 もし自分が寄越した剣でフィオナが死んだと知れば、あの王子様は酷く自分を責めてしまうのだろう。
 それが容易に想像できて、笑えた。笑えるほど悲しいなんて体験も初めてである。
 一度剣を抜いたジャイルズが、ゆっくりと振り上げる。胸を一突きか首を切り落とすか、どうするつもりかは知らないが、どれにせよこれで自分は終わりらしい。
 それなりに気に入っていた剣が、白い光を反射して輝く。それをぼんやりと見つめて思い浮かんだのは、エリオットへの謝罪だった。
「……約束、守れなかったな」
 必ず無傷で帰ると約束したのに、無傷どころか帰ることすらできそうにない。
 それがとても申し訳なくて、情けなくて、悲しくて――か細く謝罪を口にした時、ジャイルズの手によって剣が振り下ろされた。
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