勇者の行方

 冷たく固い床に転がり、擦り剥いた膝に血が滲んだ。
 痛みに顔を歪める暇もなく、視界が闇に閉ざされる。
 慌てて振り返れば五段程の階段の先、蜘蛛の巣が張った天井にある唯一の出入り口は既に閉められ、石作りの扉の向こうから更に蓋をする音が微かに聞こえた。
 膝の痛みなど忘れて階段を這いずるように上り、扉を開けようと上に押し上げる。
 しかし重たいそれはびくともせず、握り拳を作って懸命に叩いた。縮こまった喉から声を張り上げる。小さな手がぶつかるたび、ぺち、ぺち、と力ない音が僅かに響いた。
 外からは超音波かと思うほど甲高い何か獣じみた鳴き声と、皿や家具が壊れる音。そして女と男の悲鳴が聞こえ、咽び泣きながら必死に声を上げた。
 石を何度も殴る手は既に傷つき、暗闇に慣れた目で扉や床が自分の血液で汚れているのがよくわかった。
 しかし、最早痛みは感じない。
 ただただ恐怖に支配された心はこの場にいる事を恐れ、目の前の扉一枚挟んだ外に出る事を恐れ、外にいる彼らがその場に残っている事を恐れていた。
 石がむき出しになっている壁にはロープや銃がかけられ、壁際には木箱がいくつも積み重なっている。うっすらと埃をかぶったそれらを見て「次の休みに掃除をしなければ」と浮かべられた苦笑が、何故か脳裏に蘇り、心臓を一突きされた気分だった。
 扉の上にまた何かが乗せられたのか、微かな振動が手に伝わった。
 向こう側に声は届いているのか、それとも外の喧騒でかき消されてしまうのか。何もわからないままただ嗚咽混じりの叫びを上げ、壊れた人形のように扉を叩き続けた。
 すると、ぽたりと何かが額に降ってきた。
 涙ではない。涙が額を濡らす筈がない。
 思わず手を止めると、再び何かが降ってきて、今度は頬に当たった。恐る恐る額に触れ、軽く拭う。
 覗き込んだ手のひらは自分の血に染まり、薄汚れていた。それでも握り込んだ指先だけは血に塗れることなく、汚れてはいても白いままだ。
 その指先の中で何故か中指に赤がついていて、つい呆然とそれを見つめた。すると、また上からぽたりと雫が降ってくる。
 三滴目のそれを見た時、全身が大きく震えた。堪えきれなくなった雲が雨を零すように、ぽたりぽたりと雫が降っては自分の顔や体に赤い斑点をつける。
 頭上から降るそれが血液だと理解した時――喉が潰れんばかりの悲鳴が、地下室に響いた。

  *

 ハッとフィオナは目を覚ました。
 飛び起きた体がすぐさま痛みを訴え、背を丸めて僅かに呻く。
 特に背中と頭に鈍い痛みを覚えて押さえるが、どうして痛いのかわからない。
 しかもここは宿舎の自室でもなければ、エリオットの寝室でもないようだ。もしどちらかだったならベッドで寝ている筈だが、今蹲っているのは欠けたり苔が生えている石が敷き詰められた床だ。そもそもそんな場所が王城にある訳がない。
 ひとまず状況把握だと周囲を見回したフィオナは、その瞬間、息を飲んだ。
 石造りの宮殿は壁や天井が所々崩れ、赤いカーテンやカーペットも引き裂かれ、それらがここで行われた戦いの凄まじさを静かに物語っている。大きく開いた窓からは長閑な海が見え、もしこんな場所でなければ絶景スポットにでもなりそうだった。
「なんで……ここは……」
「――目が覚めたか?」
 呆然とするフィオナにかけられた、男の声。振り返ると、厳つい扉があった場所から布で顔のほとんどを覆った男が入ってくる。
 その姿を、その赤い瞳を見て、フィオナはようやく城下町での事を思い出した。
 慌てて胸元を確認しても、あのエメラルドの石はおろかチェーンすら見当たらない。大切な彼女の感謝も信頼も、想い全てを失ってしまったような気がして、胸の奥が熱くなった。
 喪失感にぐっと唇を噛み締めていると、男は靴音を響かせながらフィオナの前を通り過ぎた。フィオナは顔をあげ、男を睨み付ける。
「お前、何者だ! ここは誰も入れない、立ち入る事を禁じられた場所だ。それなのに、なんで……っ」
「ここがわかるなら、やはりお前は勇者で間違いないんだな」
 フィオナの問いかけに答えず、男はゆっくりと振り返った。
 男の傍には、彼が三人ほど並んで座れそうな巨大な椅子。赤い布は破け、金の装飾が剥がれていようとも、堂々とその場に立つそれにフィオナは眉を寄せる。
 そんなフィオナの反応を楽しむかのように、男は大きく手を広げて高らかに声を上げた。
「ここは五十年も昔、悪しき魔王が建てた城――そして魔王が勇者に敗れた、玉座の間だ」
 ぐっと拳を握り締めた彼女を知ってか知らずか、男は芝居がかった動きで恭しく礼をしてみせる。

「ようこそ、勇者よ。――そして、おかえり」
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