口説き文句とお遣い

 抱き枕のようだ。
 フィオナはそう思った。ぎゅう、とひたすらに自分を抱きしめている男を見て、心中で溜息を吐く。
 覚悟しろと言われた日から、エリオットと過ごす時間が増えた。
 起きる時間が別々なのを考慮してか、朝食以外の昼と夜の食事は必ずといってエリオットと一緒に食べ、暇を持て余して鍛錬場にいればエリオットが休憩に入ったからとサイラスが呼びにやってくる。
 拒否する事も可能なのだろうが、それをしないのは無駄だとわかっているからだ。
 この男の誘いを断った所で、どうせ強制連行になるに決まっている。それなら最初から大人しく従ってしまった方がいい。
 そしてこうやって一緒にいる間何をしているかと言えば、特に以前と変わった所はなかった。
 あんな宣言をしてくるのだから、きっと何かをされるのだと思っていた。そうやって最初の内は身構えていたのだが、十日も繰り返せばいい加減慣れてくる。
 ソファに並んで腰かけたまま、充電とばかりに抱きしめて動かないエリオットを一瞥し、フィオナは分けてもらった彼のケーキをぱくりと食べた。
「……エリオット、本当に私が好きなのか?」
「ああ、好きだ」
「……好きなら、普通口説くんだろ? なのにお前は、呼び出しても飯かケーキを一緒に食べるだけだ。令嬢達の時みたいに、口説いたりしないのか?」
「なんだ、口説かれたいのか?」
 肩に埋めていた顔を上げて、エリオットがにやりと笑う。
 フィオナは顔を真っ赤に染めた。
「違う! あんな偉そうな事言ったくせに、お前が何もしてこないから……!」
「へえ? 俺に抱きしめられておいて、何もされてないって? こないだまでのお前ならありえない言葉だな」
 満足そうな笑みに、ますます顔が熱くなる。
 確かにそうだ。この数日間の内に、すっかり彼に触れられる事に慣れてしまっていた。いや、慣らされてしまった。
 赤らんだ顔で恨めしそうに睨み付けるフィオナに、エリオットはくつくつと楽しげに喉で笑う。
「俺の気持ちだって認めようとしなかったのに、今はちゃんと俺がお前を好きだと認め、抱きしめられても抵抗一つしない。充分、俺の努力の成果じゃないのか?」
「知るか! この馬鹿王子!」
「そう怒るな。お前に普通の口説き文句は効きそうにないからな、今は考え中だ。楽しみにしてろ」
「だから違うって言ってるだろ!」
 元々幼馴染にすら口で勝てたためしがないのに、この男に挑んだ所で勝ち目などある筈がない。フィオナは一度きつく睨み付けると、拗ねたように顔を背けた。
 そうしてまたケーキを頬張る彼女を見ると、胸の中に愛おしさが込み上げて、エリオットはますます笑みを零す事をやめられない。悪戯心が膨らんで、未だ朱に染まっている頬をそっと食んだ。
 弾かれたように振り返ったフィオナが、瞠目したまま頬を、耳を、首筋を更に赤く染める。
 さすがにキスはまだ慣れないか、と心中でひとりごち、エリオットは金糸のような髪を撫でた。
 抱きしめられても平気な顔をしていた彼女は、たったそれだけでぴくんと身を震わせる。キスをした事で初々しさが戻ったらしい。
 窺うような色をした瞳に、ついつい眉を下げて笑った。
「フィオナ、俺は確かにお前からすれば女を誑し込む不埒な男に見えるだろう。そう思われても仕方ない事をしてきた。否定はしない」
「……」
「だがな、俺が自ら誘った女なんかいない。寄ってくる女を拒まなかったのは事実だ。それでも、俺が口説こうと思った女は――ずっと想っていたのは、フィオナ、お前だけだ」
 バイオレットの瞳がまっすぐにフィオナを射抜く。
 重たく胸を打ったその言葉に何も言えないでいると、髪を撫でていた手のひらが優しく頬に添えられた。腰を抱く腕に更に引き寄せられる。
 導かれるままに少し顔を上げれば、熱を孕んだ眼差しのエリオットと視線が交わる。どくん、と心臓が強く跳ねた。
 ゆっくりと近付く距離に思わず息を止め、フィオナはかたく目を閉じる。
 そうして呼気さえ感じられる距離になったその時、心音のみが響いていた耳に静かなノックが届いた。
「――失礼いたします。殿下、そろそろお時間で……」
 扉を開けて入ってきたサイラスが、僅かにきょとんと目を丸くする。
「……一体何のお遊びですか?」
 ソファの上には、両手で覆った顔を膝に擦り付けるようにしているフィオナと、その隣で腹を抱えたエリオットが死んだように横たわっている。一体何の図だ。
 ぼそぼそと、あるいは苦悶に似た声で「なんでもない」と二人揃って言うが、何かあった事は明らかだった。
 サイラスは一先ず扉を閉め、ふうと溜息を吐く。
「殿下、そろそろ再開していただかなくては間に合いませんよ。それと、フィオナ殿へのお願いはもうお済になりましたか?」
「あー……忘れてた」
 イタタタ、と腹を摩りながら起き上がるエリオットを、フィオナが不思議そうに見つめた。お願いされるような事が全く思いつかない。
 ようやくちゃんとソファに座ると、エリオットはポケットから一枚の紙切れを取り出した。
「港町まで、少しお遣いに行ってきてくれないか?」
「港町って、コーレか? なんでそんな所に?」
 紙切れを受け取ると、そこには聞き覚えのない名前とその個数が箇条書きされている。
 エリオットは頷き、僅かに息を吐いた。
「同盟国のサリスフィアでテロがあったのは知ってるか?」
「ああ。アルタ=ヒルデからも援軍を送るって、ダレルが言ってた」
「そうだ。援軍の他にも救援物資や医師、必要なものは大抵送っている」
 魔王が倒されてから半年、世界は平和になった。しかし、それは一時的なものでしかない。
 未だ魔物による被害で苦しんでいる国もあれば、国力があまり無かったが故に義勇軍と称する一般市民が一気に力をつけた国もある。
 魔王という人類共通の敵を失った今、人間は怒りや不満を人間にぶつける。
 幸いアルタ=ヒルデはそれほど甚大な被害もなく、辺境での復興も順調だ。反乱分子の動きもない。
 まだ余裕があるという事で、サリスフィアの助けを求める声に応じ、できる限りの物資と人員を派遣していた。
「特に医療の類はこっちの方が技術が高いからな、たくさん送った。お陰で城内にも必要最低限の医師と薬剤師しかいない」
「へえ、それで?」
「薬室長に、買出しに行かせられる人間がいないと怒られてな。そこで、暇なお前に頼む事にしたんだ」
 苦笑するエリオットに思わず溜息を吐く。
 明らかにエリオットのミスだと思うのだが、理由が理由なだけに何も言おうと思えない。
「……わかったよ。これに書いてある物を買ってくればいいんだな?」
「ああ。馬は適当に好きなのを選んで行け。明日までに揃えばいいから、そんなに急がなくてもいいぞ」
「了解」
 立ち上がったフィオナはひらりと手を振って、執務室を出て行った。
 それを見送り、エリオットはじとりとサイラスを睨み付ける。
「……お前、狙って入ってきただろ」
「さあ、一体何の事でしょう?」
 柔らかい笑みを浮かべるだけの側近に内心舌打ちしながら、エリオットは仕事を再開すべく立ち上がった。
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