魔術師と側近

 壁に貼り付くようにして身を潜め、廊下の先を窺う。何人か見知った顔が通っているのが見えるが、そこに彼の姿はない。
 それを確認してから、クラリッサはほうっと息を吐いた。
 どうしてこんな日に限って、定例会議があるのだろう。今日はずっと研究室に引きこもっていたかったのに。
 心の中でぶつぶつと文句をたれながらも、こそこそと廊下の端を行く。
 いつもなら定例会議にも出席しているエリオットが見られなかったのは幸運だった。彼はどうやら他の仕事に追われているらしく、側近が代役に来る事もできない程多忙だとの事だ。恐らく、昨日出来なかった分の仕事を捌いているのだろう。
 今日はこの定例会議さえ終えれば、魔術師が働く魔術塔を出る用事はない。時々ではあるが、どうしても手を離せない時には部下に適当に食事を運んでもらっているし、今日もそうしてもらえばいい。
 悶々とそんな事を考えながら、再び曲がり角の先を窺った時だった。
「……何やってんだ? クラリッサ」
「ひあっ!?」
 背後から聞こえた声に素っ頓狂な声が上がる。慌てて振り返ると、フィオナが不思議そうな呆れたような眼差しを向けていた。
 自分が不審な行動をしている自覚があるだけに、クラリッサはかあっと頬を赤らめる。しかし言うべき言葉が見つからずぱくぱくと口を開閉させていれば、フィオナがこてんと首を傾げた。
「さっきからコソコソして。どうかしたのか?」
「な、なんでもないの! 少し、コソコソしたい気分だっただけ!」
「それ、何かあるからコソコソしたいんだろ」
「っだ、大丈夫! 本当よ、フィオナが心配する事は何もないわ! 何かあったらちゃんと言うから、ね?」
 訝しげに眉を寄せた幼馴染にあたふたと早口でそう告げ、「そ、それじゃあ」とクラリッサは逃げ出した。
 これ以上一緒にいれば、彼女に知られてしまうと思った。人の好意に鈍い彼女はまだ気付いていないが、サイラスを想っている事が知られてしまうのは恥ずかしい。
 知られる事が嫌な訳ではない。だが、その事で気落ちしたりしていると彼女は絶対に心配をし、自分の事のように悩むだろう。それが嫌なのだ。
 コツコツと靴音を響かせながら早足で廊下を抜け、外へ出る。綺麗に石が敷かれた小道を進めば、すぐに魔術塔だ。
 あともう少し。そう安心したのも束の間、穏やかな声がクラリッサの名前を呼んだ。
「クラリッサ殿、こんにちは」
「……サイラス、様」
 にこりと微笑む男は、まるでクラリッサを待ち伏せていたかのように魔術塔の前に佇んでいる。
 いや、実際待っていたのだろう。きっと彼にはお見通しの筈だ。今日一日、クラリッサが彼を避けようとする事など。
 だからここで待っていた。必ず戻らなければいけない場所の前にいれば、クラリッサは逃げられない。
 体を強張らせたクラリッサは、配布されたばかりの書類をぎゅっと胸の前で抱き締める。思い出すのは、やはり昨晩の事だった。
 自分でも、どうしてあんな事を言ってしまったのかわからない。
 安心したのかもしれない。やはり自分と彼は似ているのだと思い、共通点を見出し、仄かな喜びを感じたのかもしれない。
 その所為で気が抜け、彼が大切にしている人の心を希望的観測に過ぎない言葉を使って軽々しく口にした。
 自分よりも長く傍にいた彼の方が、遥かにエリオットの事を理解できるだろう。理解できると信じたいだろう。
 クラリッサだってそうだ。
 フィオナやダレルの気持ちを、ただの憶測で決め付けるような事はしてほしくない。それを得意げに語られた日には、滅多に沸き起こらない怒りに自分でも何をするかわからない。
 ずっと傍にいた私の方が二人の事を知っている。そのプライドを傷付けられたら、人目も憚らず泣いてしまうかもしれない。
 あの時はただただ羞恥心で一杯だったのだが、一晩明けて起きてから気付き、血の気が引いた。昨晩の自分が憎らしく、同時に悲しかった。
 これでいよいよ嫌われてしまったかもしれない。今までは恋愛対象として見られていないだけだったのに、これからは彼にとって嫌悪感を抱かずにはいられない人間になってしまうかもしれない。
 そう考えるとたまらなく怖くなって、サイラスを避けずにはいられなかった。
「クラリッサ殿」
 いつもと変わらない穏やかな声が、クラリッサの名前を紡ぐ。しかし、クラリッサは顔を上げられない。
 彼は仮面を被る事が得意だ。それはよく知っているが、クラリッサにはまだ仮面を被っているかどうか判断する事も難しい。その声がどんな感情を孕んでいるかなど、わかる筈がなかった。
 一つ、彼の足音がした。一歩近付いたサイラスが、再びクラリッサを呼ぶ。
「クラリッサ殿。――昨晩は、ありがとうございました」
 ――え……?
 クラリッサは呆然と顔を上げた。目の前には、深々と頭を下げるサイラス。
 一体どういう状況なのだと混乱するクラリッサを余所に、サイラスは頭を下げたまま続けた。
「貴女のお陰で気持ちに整理がつきました。同時に、自分がすべき事もわかるようになりました。確かに私は自分の気持ちを決めつけ、見ようとはしなかった。殿下の仰っていた事が、今ならわかる気がするのです。……全て、貴女のお陰です。ありがとうございます、クラリッサ殿」
 静かに、けれどしっかりとした口調でお礼を述べるサイラスを暫く呆然と見つめて、ようやくクラリッサはハッと我に返った。
「そ、そんな! 顔をお上げください! 私は何もっ……それどころか、貴方に失礼な事を……!」
「いえ、貴女が気付かせてくださったのです。あのままでは私は何も変われなかった。……変わろうとすらしなかった。だからどうか、貴女に感謝させてください」
 ゆっくりと顔を上げたサイラスが、淡く微笑む。眩しそうに細められた眼差しには彼の決意が浮かべられているようで、クラリッサは思わず息を飲んだ。
 綺麗だ。今まで見た彼のどの表情よりも、一番綺麗だ。
 言葉を失ったクラリッサを見つめ、サイラスは眉を下げる。
「貴女には驚かされてばかりです。か弱いのかと思いきや、ちゃんと強い心をお持ちになっている。やはり貴女も勇者様の仲間なのだと、再認識させられます」
「サイラス様……」
「……だから、貴女の事、真剣に考えてみようと思います」
 銀色の瞳が僅かに見開いた。
 その中に映る自分に、サイラスは苦笑を零す。
「正直、貴女の事は素敵な女性だとは思っています。ですが、それが貴女と同じ恋愛感情から来るものなのか、それとも十も歳が離れた妹を見るような感情なのか、自分でもよくわからないのです。だから、ゆっくり考えてみたい。中途半端な気持ちで貴女に触れる事も突き放す事も、今の私にはできません」
「っ……サイラス、様」
「自分の心を偽り続け、挙句自分でも自分の心がわからなくなってしまった、愚かな男です。立派な物など何一つ持ち得ません。愚かで、情けない男です。それでも、待っていてくださいませんか?」
 じわりと胸の奥が熱くなった。その熱が上へ上へと登って、涙腺を刺激する。
 クラリッサは涙を必死に堪えて、必死に頷いた。壊れた人形のように何度も何度も頷くと、彼が笑う気配がする。
 頬を伝う涙を拭う指先は、優しく、あたたかかった。
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