鳥籠と鍵

「捕まえましたよ、殿下!」
 恐らく名を尋ねようとしたのだろう、少年が僅かに口を開いた瞬間、彼の腕をあの貴族の男がぐっと掴んだ。
 それに一度びくりとしたサイラスだったが、男の発した言葉が脳裏で勝手に再生され、また驚いた。
 今、この男はなんと言ったか。この簡素な衣服を纏った少年を、『殿下』と呼んだ。この国で現在『殿下』と呼ばれるのはただ一人、現国王の一人息子であるエリオット・クロムウェルのみである。まさか、この少年が?
 鬱陶しそうに舌を打った少年をよくよく見ると、簡素に見えるその衣服が上等な生地で作られているのがわかった。
「ご無沙汰しております、エリオット殿下。お変わりないようで何よりでございます」
 いつの間にか頭を上げた父が、呆然とするサイラスの隣でにこやかに礼をする。それにようやく確信を持ち、サイラスは慌てて穏やかな笑みの仮面を装備した。
 この少年はいずれこの国の頂点に立つのだ。失礼があってはならない。
 父に倣うように礼をすると少年が「ああ」と短く挨拶をして、頭を上げて良いと言う。促されるまま上げると、彼の視線がまっすぐに向けられていた。
「お前とは初めて顔をあわせるよな? 俺はエリオット。お前の名は?」
「お初にお目にかかります、殿下。私はサイラス・ハミルトンと申します」
 叩き込まれた丁寧な礼をすると、エリオットはほんの一瞬、眉根を寄せたように見えた。
 しかし大人は気付かなかったようで、一体どうしたのかと尋ねる父にすぐさま男が「いつも通りだ」と答える。サイラスにはわからなかったが父には通じたようで、皺が入った顔を苦笑させていた。
 他の人が会話できれば、自分が話の腰を折ってまで入る必要はない。そういつものように考え静観に徹しようとすると、まるでそれを阻むようなタイミングで少年の小さな手がサイラスを捕まえた。
 ぎょっと少年を見れば、彼は静かに見上げてくる。
「よし、決めた。お前も行くぞ、サイラス」
「――は……?」
「アリスン、保護者同伴なら文句はないだろう。日没には戻るし、人気の無い場所には行かない」
 サイラスが何かを答える前に、エリオットは男を見上げて説得にかかる。それでもなかなか承知しない男に明らかに苛立ちながら、遂には「一週間部屋から出ずに勉強してやる!」とまで言って、ようやく男は渋々といった体を装って頷いた。その瞬間、ニイッと彼が楽しげに笑う。
 何がなんだかわからないままに二人の間で決してしまい、男の手が離れた途端、エリオットはサイラスの腕を掴んだまま駆け出した。小さな手のひらは力強くサイラスを引っ張っていく。
 そうして外へ出て城壁にある一本の木に近付くと、ようやく彼は手を離してその木をあっという間に登ってしまった。
「ほら、早く来い。時間がもったいないだろう」
 地に足をつけて呆然と見上げるサイラスに、エリオットは呆れたように言う。勢いで「は、はあ……」と返事をしてしまったサイラスは、エリオットを真似るように木に登り、城壁を飛び越えた。
 何故自分が王子に同行しているのだ。城下町に相応しく賑わいを見せる人々を眺めながら、サイラスはそう思わずにはいられなかった。
 このままでは目立つと貴族らしい上着を脱ぐように言われ、そもそも何故王子が城を抜け出しているのだと根本的な疑問を抱きつつも素直に従った。謎だらけであっても王子なのだ。逆らえる訳がない。
 自分の庭だとばかりにずんずん道を歩き始めたエリオットの後を追いかけ、サイラスは彼の一歩後ろに並んだ。
「あの、殿下……」
「――おや? エド坊じゃないかい」
 サイラスの呼びかけを遮ったのは、饅頭のような図体をした年増の女だった。
 一体誰の事だと目を丸くするサイラスをよそに、エリオットが「ああ、久しぶり」と慣れたように返事を返す。
「最近見ないから心配してたんだよ。今日はウチの、買っていってくれるかい?」
「そうだな。久々におばさんのお菓子が食べたい」
「そうこなくっちゃな!」
 ちょっと待ってな、とすぐ後ろの店の中へ引っ込んだ女を見送ったエリオットが、ちらりと視線を寄越す。そしてやはり呆然としているサイラスを見て、悪戯が成功した子供のように笑った。
「こうして外に出る時は、エドという名を使ってるんだ。身元を知られるとまずいからな、お前もそう呼んでくれ。畏まる必要もない」
 いやいや、今畏まらないでいつ畏まる。そう言いたくなったがぐっと堪え、サイラスは一応「はい」とだけ返事をした。
 それよりも先に、思い浮かんだ二つの疑問を尋ねなければならない。まずは何故抜け出したのかだろうと改めて尋ねようとすると、それを遮るようにエリオットが視線を店へと戻した。
「俺はこの国を背負う。その為に必要な教養を身につける事は当然だ。だけど、自分が守るものの姿を知らないのは変だろう。歴史も文化も大人と本さえあれば知る事ができるが、本当にそうかは自分の目で見ないとわからない。父上がいつもそう言ってくれる」
「陛下が……」
「俺はこの国が好きだ。好きな物は知りたいと思う。だから時々抜け出して、街を少しだけ散歩するんだ」
 歳にそぐわない淡々とした口調でありながら、そこには確かに力があった。力というよりは、光に近いような気さえした。
 戻ってきた女から紙袋を受け取り代金を払うと、エリオットはサイラスを振り返りもせずに再び歩き出す。小さな背中についていきながら、その背中の大きさには似合わない威風堂々としたものが彼にはあるのに気がついた。
 こんな少年でさえ、自分より輝いているなんて。自分はどれだけ木偶坊なのだ。
 ふっと自嘲の笑みを浮かべた時、ガサガサと袋を漁っていたエリオットがその中からパイを取り出して一口齧った。
「なあ、お前はいつもそうやっているのか?」
「はい?」
「お前はずっと窮屈そうに笑う。まるで籠に押し込められた鳥だ」
 バイオレットの瞳の中で、自分の瞳が僅かに見開くのがわかった。
 籠に押し込められた鳥。自分は鳥なんて美しいものではないと思いながら、それはとても自分に似ていると思った。
 そんなサイラスをじっと見つめたまま、エリオットはこてんと首を傾げる。
「慣れない所で息苦しいのか? 領地に戻れば気も楽になるだろうが、伯爵の用が終わるまで帰れないだろう。城で窮屈な思いをするくらいならと思って散歩に連れ出したんだが、意味がないようなら部屋を用意させるから休むか?」
「……いえ、決して気分が悪い訳では」
「なら、それがお前なのか」
 淡く笑んだサイラスの胸に、凛とした声がちくりと刺さった。
 ――確かにそうだ。これが私だ。
 偽りの笑みで自分を隠し、自分自身ですら本当の姿がわからなくなった愚か者だ。
 何も言わないサイラスをじっと見つめたまま、エリオットはうんと頷いた。
「サイラス、あのハミルトン伯爵家の次男坊はお前の事なんだろう? 噂は聞いている」
「……はい」
「お前は非の打ち所がない素晴らしい男だそうだな」
 え、と俯きかけた顔を上げた。「俺もお前のようになりたい」と頷く目の前の王子は至って真剣そうだが、一体どうしてそんな噂が出回っているのだ。自分はただの木偶坊だと言うのに。
 目を丸くしたサイラスに気付いたのか、エリオットが息を吐くように笑った。
「確かにお前の噂は耳障りの良い物ではなかったが、『何をしても普通』という事は『何でも人並みにできる』という事だ。苦手な事がない男に憧れるのは当然だろう」
「し、しかし、私は本当にそのようなお言葉をいただけるような者では……」
「今はそうでも、いずれお前はでかくなる。お前の努力次第で『人並みの出来』は逸脱した物になるし、いつか『何でもできる』男になる。俺が言うんだから間違いない」
 自信たっぷりに笑う彼。まるで、鬱然とした雨の中に爽やかな風が吹き抜けたような気分だった。そんな考え方なんて知らなかったし、誰も教えてはくれなかった。生まれて初めて、認めてもらえた。
 じわりと心があたたかくなっていく。喜びに心がほぐれ、表情が綻ぶ。
 数年ぶりに浮かべた笑みは照れ臭くて、けれど穏やかで。
 ――彼の傍に一生いたいと、そう願った。
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