箱と木偶坊

 彼にとって、そこは酷く息のし辛い箱の中だった。


 サイラスは、ハミルトン伯爵家の次男坊としてこの世に生を受けた。
 ハミルトン伯爵家は比較的王城にも近い場所に領地を持ち、他の貴族との仲も悪くなく、領民の反感を買う事もなく、むしろ必ずその家の者はあらゆる分野で名を上げると評判の一族である。現に父のハミルトン伯爵は数字に強く、若い頃には学問発展への貢献を称えていつくか賞を貰っており、三歳年上の兄は恐ろしい程楽器が得意だった。
 しかしサイラスには、これといった特技がなかった。
 様々な分野に携わり、それを誇りとしているハミルトン伯爵家では、男女問わず徹底的なまでにあらゆる教育を施され、何か目立った所があればそれを積極的に伸ばした。基本的な学問は勿論の事、武術、芸術、占星術に至るまで、思いつく限りの分野にまず手をつけさせるのだ。
 だがそれでも、サイラスは特別な何かを持つ事はできなかったのである。何をやっても人並みの出来、焦って同時にいくつかの『習い事』を強要すれば逆にどれにも手をつけられなくなる。
 出来ない訳ではない。だが、大勢いると埋もれてしまう出来前。
 しかしそれでは駄目だ。人より優れていてこそ、誇り高きハミルトン伯爵家なのだから。

 ――『木偶坊』のレッテルが貼られるのに、そう時間はかからなかった。
 十歳になる頃には両親も次第に諦め始め、貴族として生きるのに必要なものだけを身につけさせようとした。
 それはサイラスにとって応えられない期待をされるよりも幾分か気持ちが楽な事ではあったが、寂しさを拭いきる事はできなかった。誰かと話をする時、誰かに見られる場に立つ時、家族と食事をする時でさえ、他人の反応が怖くて堪らなかった。
 なんて役立たずな子供だろう。この家には必要ない子供だ。
 いつそんな言葉を浴びせられるのかと、毎日を怯えて暮らした。
「サイラス、無理をしなくて良い。人には得手不得手があるのだから、お前はお前の精一杯出来る事を頑張れば良い」
 幾度聞かされたのかわからない台詞は、いつだって胸の奥をちくりと刺した。
 お前はどうせ何も出来ないのだから、出来ない事をやって『ハミルトン』の名に泥を塗るな。いつもそう聞こえて仕方がなかった。
 そうして過ごす内に、いつの間にか外に出る時は顔に笑みが張り付くようになった。愛想笑いよりは幾分穏やかな微笑をたたえるのが得意になった。
 どうしてそうなったのかはよくわからないが、もしかしたらせめて体裁だけでも良くしてこれ以上恥にならないようにと考えたのかもしれない。自室にこもった時にしか剥がれないその仮面が回数を重ねる毎に完成されていくのを感じながら、そんな風に考えた。
 穏やかな仮面を被った事で家の評判を落とす事はなかったが、その代わりに家族と段々と顔をあわせる事が減っていく。自然と会話も減り、十二を数える頃にはいよいよ家族にすらどういう表情、態度で接すれば良いのかわからなくなっていた。
 外に出ようと屋敷の中にいようと、使用人達にすらその仮面を被って接した。まだ昔から知る間柄である分、屋敷の中の方がより一層息苦しく感じた。

 そんな時である。
 十三歳になって少し経った頃、父が王城へ来るよう呼ばれた事があった。
 そういえばまだ連れて行った事はなかったと父は思いついたように言い、自分が話をしている間は誰かに案内を頼むからとサイラスと共に馬車に乗り込んだ。
 豪華絢爛と噂の王城にもそこに住む王族にもさして興味は無かったが、父や家族に逆らおうという気は無かった。
 恐れているだけで、恨んでいる訳ではないのだ。誰も彼もこの仮面に騙されてくれるのだから、どこへ行こうと変わらないし、問題ではない。
 互いに無言のまま馬車に揺られ、辿り着いた王城にサイラスは僅かばかり目を見開いた。
 広大な敷地にいくつかの建物が並び、それはどれも大きく立派であったが、中でも中央にそびえる宮が最も煌びやかで、すぐに王族がそこにいるのだろうとわかった。綺麗なのは建物ばかりではなく、庭園ではないただの道端にも美しい花々が咲いており、淡い色をした小鳥が楽しげに歌っている。
 特に言葉を発する事無くただ父について歩き、鏡のように磨かれた廊下を進む。どこへ向かっているか等聞いた所でよくわからないので、少し丸くなった背から窓の外へと視線を移し、景色を眺めながら歩いていれば、不意に廊下の先から慌しい空気が近づいてくるのに気付いた。
 不思議に思いながら視線を前へと戻すと、バタバタと駆けてくる二人の人影が見えた。
 一人は立派に仕立て上げた服を着ている男で、遠目でも貴族である事がよくわかる。歳は二十代後半といった所だろうか。
 もう一人は街を駆け回る子供と同じような簡素な服を纏った、濃い藍色の髪をした子供だった。
 まだ五歳程に見える少年はどうやら男に追いかけられているらしく、ちらりと振り返り男の姿を認めると煩わしそうに舌打ちをする。
「しつこいぞアリスン! もう今日の授業は終わった筈だろう! いつまでもついてくるな!」
「私とて、追いかけたくて追いかけている訳ではありません! ここで見逃せば、また城を抜け出すおつもりでしょう!」
「当たり前だ!」
「開き直らないでください!」
 怒鳴るように言い合いながら全速力で走る二人の体格差は歴然としたものがあるが、男はあまり運動は得意ではないのか足が速くは無い。逆に少年は足も速く、彼らは同じ距離感を保ったまま近付いてくる。
 一体何事だと不思議に思うサイラスの隣で、ハッとした父が慌てて頭を下げた。少年が目の前に来たのとほぼ同時の事である。
 状況把握もできずにただ『出遅れたらしい』としか思えなかったサイラスは、自然少年とばっちり目があってしまう。
 宝石のような深い紫色をした瞳が、ぱちくりと大きく瞬きをした。
「――お前、初めて見る顔だな」
 幼い顔立ちには似合わない凛とした声と、まっすぐに見据える瞳。
 一瞬、自信に満ち溢れた彼に見惚れた。

 ――これが、エリオット・クロムウェルとの出会いだった。
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