暗闇

『自分が決して器用な人間ではない事を忘れるな』
 鼓膜の奥で、静かな声が何度も何度も告げる。薄暗い廊下を早足に歩きながら、サイラスは無性に耳を塞ぎたくなった。
 自分が器用でない事など、知っている。それこそ、彼と出会う前から理解していた。
 いくつもの物事を同時にこなす事は得意ではないし、ちょっとした事ですぐに感情が揺れる。それが彼に関する事ならば尚更だった。
 それでも余裕があるように装うのは、唯一の主の恥にならないように。
 何年も何年も、たったそれだけの為に精一杯自分を作ってきた。ただただ、彼の傍にいる為に。
 それでも、自分を偽ってるとは思っていない。彼の傍にあれる自分こそが理想の姿であり、彼への恩情に従ってしている事なのだから、偽りも何もなかった。
「……私には、貴方だけ……貴方さえいれば、他に何も必要ない……」
 掠れた声が僅かに空気を震わせる。宿舎へと向かっていた足は止まり、握りしめた手のひらに爪が食い込んだ。
 今、こうして自分が呼吸をして生きているのは、他でもない彼のお陰だ。彼に出会わなければ、彼がいなければ、幸福という言葉の意味すら知らずに育ったに違いない。それは生きていない事と同義だ。
 救ってくれた恩人を少しでも助けたいと思う事は間違いなのか。大切な人の傍にいたいと願うのは間違いなのか。二十年近く変わらなかった信条が、想いが、容易く覆る事などない。そう思い込む事は――
 薄闇に誘われるように思考の渦にはまりかけた時、微かに息を飲む音が聞こえた。
 ハッと顔を上げると、ちょうど曲がり角の方でぼんやりとした灯りが灯っている。
「――だ、誰……?」
 振り絞ったような声は震えていて、心臓がびくりと強張った。
 小さなランタンを持った彼女の頬を、橙色の柔らかい光が舐める。こちらを見つめる銀色の瞳には涙が溜まり、明らかな怯えが浮かんでいた。
 胸の辺りで拳を作っている彼女の名前が、ほぼ無意識に口から零れ落ちる。
「クラリッサ殿……」
「……サイラス、様……?」
 恐らく、灯りも何も持っていないサイラスを視認する事ができず、薄闇に佇む人影が怖かったのだろう。声からその人影の正体を突き止めたようで、クラリッサはあからさまにほっと息を吐いた。
 いつか、フィオナが彼女は昔から怖がりだと言っていたのを思い出す。雷も怪談も暗闇も、一人では泣いてしまう程苦手なのだと。
 さすがにこの歳で泣く事はなかったようだが、それでも怖いのには変わりないのだろう。目に見えて安堵の表情を見せたクラリッサが、小走りに駆け寄ってきた。柔らかい光が近づく。
「こんばんは、サイラス様。今、お帰りになられるのですか?」
「え、ええ……貴女こそ、こんな時間までお仕事を?」
「いえ、仕事は夕飯の頃には終えたのですが……少し研究を進めるつもりが、没頭してしまって……」
 橙色の光の中で彼女の頬がほんのりと色付くのがわかって、恥ずかしそうに俯く彼女に胸があたたかくなる。
 穏やかな心地に目を細めると、クラリッサは少しだけ首を傾げた。
「では、近くまでお送りしましょう。いくら城内とはいえ、女性一人では心細いでしょう」
「えっ! いえ、だ、大丈夫です! 反対方向なのに、そんなご迷惑は……っ」
 広大な敷地の中、女性用の宿舎と男性用の宿舎は東西に対をなすように設けられていて、当然のように異性の宿舎付近に立ち入る事はできない。見つかれば即厳罰が下される。
 城内で働く者なら誰でも知っているそれをサイラスが知らない筈はなく、勿論彼も男でも行く事が可能な東の庭園までのつもりである。しかしクラリッサは遠回り所か敷地の端と端を横断しなければならない事を気にして、あたふたしたままなんとか失礼にならないよう断ろうとする。
 落ち着きなく視線を彷徨わせて狼狽する彼女の姿を見ていると、自然と笑みが浮かんだ。
「お気になさらないでください。貴女を一人で帰らせる方がよほど心配です。私を安心させると思って。ね?」
「……その言い方は、ずるいです……」
 消え入りそうな声で非難を浴びせるが、クラリッサはもう何も言わなかった。
 サイラスは小さく微笑んで、「では、行きましょうか」と一歩踏み出す。彼女の歩幅にあわせて歩くと、今更ながらに彼女との体格差を実感してなんだかむず痒い感覚がした。
 努めて他愛も無い話をしながら、橙色が照らす廊下を進む。擦れ違う人影はない。
 そうしてようやく外に出ると、クラリッサが意を決したように振り返った。
「あ、あの、サイラス様、何か、あったんですか……?」
「……え?」
「さっき、立ち止まっていらっしゃったから……体調でも、悪いのかと……」
 さっきとは、廊下で鉢合わせた時の事だろう。やはりあんな所で立ち止まっていては、不審に思われても仕方ない。
 サイラスは眉を下げ、苦笑を貼り付ける。
「いえ、なんでもありません。体調は大丈夫ですから、ご心配なく」
「……では、やはり何かあったんですね……」
 俯き、何かを堪えるように僅かに唇を噛む彼女に、サイラスは瞠目した。
 言い方を間違えたと後悔する気持ちよりも、何故彼女がそんな表情をするのかわからなかった。まるで自分が苦しんでいるような、こちらまで苦しくなるような表情。
 何も言えずにただ見つめていると、クラリッサがハッと顔を上げる。
「す、すみません。私、差し出がましい事を……」
「え……」
「私なんかに心配されても、ご迷惑ですよね。私なんかじゃ何のお役にも立てないし……すみませんでした。気にしないでください」
 自嘲を含んだ笑みはどこか泣き出しそうで、また心臓が変に強張った。
「私は何も聞きませんし、誰にも言いません。サイラス様の気を煩わせるのは、本意ではありませんから。早く、そのお悩みが解決できるといいですね。……それでは、お休みなさい」
 早口に捲し立てるように言って、クラリッサは庭園の中へと駆け出す。すぐに暗闇に吸い込まれそうな、小さな背中。
 何故だか恐怖に似た感情が体を突き動かし、ほぼ反射的にサイラスは彼女の細腕を掴んだ。余分な肉はないのに筋肉もあまりない所為で柔らかな腕は、簡単に折れてしまいそうだ。
 ハッと振り返った瞳にはやはり涙が膜を張り、サイラスの胸をぎゅうぎゅうと締め付ける。
 いつもの笑みも忘れて、顔を歪めた。
「……どうして……」
「え……?」
 掠れた声が薄闇に落ちる。
 サイラスはただひたすら、美しい銀色の瞳を見つめていた。
「――どうして、私を愛せるのですか……?」
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