王子と側近

 扉を開けると、まず飛び込んでくるのは机の上に積み上げられた書類。そして、その中に突っ伏す濃藍の頭だった。
 サイラスは苦笑して、その頭のすぐそばについさっき受け取ったばかりの小ぶりのパイを置く。
「殿下、だらしがないですよ。早くこれを召し上がって、遅れた分の書類を片付けてください」
「……本当にお前は、母上の次に小煩い」
 今朝再会した母親にずっと説教を受けていたエリオットの周りには、今日片付ける筈だった書類がまだかまだかと待ち構えていた。
 遅れたのはオリヴィアの所為であって、自分の所為ではない。まるでエリオットの所為のように言うサイラスにそう言い返してやりたいが、それも億劫になるほどエリオットは疲れていた。丸一日ガミガミ説教を受けていたのだ。仕方ない。
 のそりと起き上がったエリオットは、不満を全面に押し出した顔のままパイを一口食べる。口の中に広がる甘さに、細く息を吐いた。
「美味いな。初めて食べる」
「クラリッサ殿に戴きました。どうやらフィオナ殿が外出する事を知らなかったようで、彼女の為にお作りになったそうですよ。本当に仲がよろしい。羨ましい限りですね?」
 クスクスと笑むサイラス。からかいを含んだその声音に、エリオットは呆れたように頬杖をついた。
「それはお前にも言えるんじゃないか? サイラス」
「はい?」
「お前、クラリッサが気になってるんだろ」
 なんでもない調子で吐き出された言葉に、サイラスはきょとん、と目を丸くした。そんな側近に、エリオットは少々面食らう。
 この食えない男がこんな表情をするのは、一体何年振りだろう。子供の頃は稀に見たこの顔も、大人になってからは本当に見ていない気がする。
 そんな主の驚いた顔を見て我に返ったのか、サイラスは繕うように笑んだ。
「何を仰いますか。クラリッサ殿は確かに素敵な女性だとは思いますが、決してそのような想いは……」
「お前、本当に俺に隠し事ができると思っているのか?」
 どき、と僅かに心臓が強張る。
 エリオットを見ると、彼はまっすぐにサイラスの瞳を見つめていた。
「最近のお前がクラリッサを見る目は、明らかに今までとは違う。何があったかなんて聞かないし、何をしろとも言わない。だが、誤魔化す事は許さない。お前が認めないと、お前の心が可哀想だ」
「……私には、殿下以上に大切な者などありません。今までも、これからだって……」
「サイラス」
 諌めるように呼ばれる名前。揺らぐ事のない宝石のような瞳がまるで追いつめてくるようで、サイラスは精一杯平静を装うが、動揺している事がばれてしまっているという確信もあった。
 エリオットは頬杖をついたまま、そっと溜息を吐く。
「俺は一度だってお前に忠誠を誓えなどと馬鹿げた事を言った覚えはないし、俺を何よりも大切にしろなんて思った事もない。俺がお前を傍に置くのは、お前がそれを望んだからだ。あの時、俺は好きな事を自由にしろと言った。その上でお前が俺についてくる事を選んだ。ただそれだけだ」
「……殿下には、私は不要という事ですか」
「馬鹿、そうじゃない。俺が不要な人間を側に置くようなお人好しじゃない事は、お前が一番知ってるだろう。俺はお前を気に入っているし、信用も信頼もしてる」
「それなら……っ」
「サイラス、お前が思うほど俺はお前にとって必要じゃない。俺はお前の主で、次期国王だ。だからといって、お前が全てを俺に捧げる必要はないんだ。俺だけを愛する事はない。お前が好きなものを、好きなだけ愛せばいい」
 秘色の瞳が僅かに歪むのを、エリオットは静かに見つめた。サイラスはぐっと押し黙り、僅かに俯く。
 ほんの数秒沈黙が流れ、エリオットがそっと息を吐いた。
「今日はもういい。どうせ集中できないから明日やる。俺もすぐに出るから、お前は先に行っていいぞ」
「し、しかし……」
「今日はさっさと寝て、よく考えろ。自分が決して器用な人間ではない事を忘れるな」
 有無を言わせぬ口調に、自然と拳に力が入るのがわかる。溢れ出しそうな感情の渦をなんとか堪え、サイラスは一礼して執務室を出て行った。
 残されたエリオットは閉じた扉を暫し見つめ、盛大に息を吐きながら脱力する。残りのパイをぼそぼそと食べ始めると、ノックもなしに扉が再び開いた。
「エリオット、生きてるか?」
「……何の御用ですか、父上」
 ひょこっと顔を出した国王に、勝手に溜息が零れる。
 しかしウォルトは気にした様子もなくへらりと笑って、中へ入ってきた。
「いや、オリヴィアにだいぶやられてたから、大丈夫かと心配してきたんだ。一応菓子も持ってきたんだが……サイラスと何かあったのか?」
「……何故?」
「今、サイラスの奴と擦れ違ったんだが、あいつがあんなに取り乱すのはお前の事くらいかと思ってな。お前もちょうどへこんでいるし」
 机の前にあるソファに腰かけたウォルトも、やはり父親なのだと改めて思う。
 エリオットはもう一度溜息を吐いて、肩を竦めた。
「別に何も。ただ、あいつに主離れをさせようとしただけだ」
「そうか、それはいい。サイラスもいい歳だし、いつまでも依存する事はない」
 その通りだ。もう二十年近く傍にいて、まるで当然のように主は絶対だと思い込んでいるあの側近の目を、いい加減覚まさせてやらなければならない。
 何よりも、彼が前へ進む為に。
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