親愛と友愛

 はあ、と零れ落ちる溜息。
 目には見えないそれをぼんやり眺めながら、フィオナは僅かに肩を竦めてみせた。
 何故擦れ違っただけの男に溜息を吐かれなければならないのか。その理由はなんとなく察しているつもりで、いくらか皺の入った顔を呆れたように顰めている男を見上げた。
「また、お前は面白い事をやってくれたようだな。フィオナ・アルフォード」
 言葉通り面白いと感じていない事はアリスンの顔を見れば明らかだったが、フィオナは「はあ」と気の抜けた返事をするだけで何も言わないでおいた。
 なんとなく、会うのは久し振りな気がする。そんな事を頭の片隅で考える彼女に、やはりアリスンは腕を組んで溜息を零した。
「妃最有力候補と言われたレヴァインのご令嬢が失脚した事で、他の家が更にアプローチをかけてきているぞ。殿下は僅かながらでも勢いの衰えたレヴァインの穴を埋めるのにお忙しいというのに、権力に群がる阿呆共の娘が毎日のように殿下の元を訪ねている」
「はあ……それが何か私と関係が?」
「お前がさっさと殿下と結ばれてしまえばこんな事態にはならなかった。今からでも遅くはない。さくっと結婚してしまいなさい。そうすれば、少なくとも阿呆の相手をする無駄な時間も労力も無くなるだろう」
 また面倒臭い言い訳を。フィオナはうんざりした。
 この侯爵は、どうしてもフィオナとエリオットをくっつけたいらしい。
 理由など考え付かないし、考えようとも思わない。聞いた所で、理解できない理屈を説かれるだけだろう。
 どうやってやり過ごそうかと考えていると、アリスンの向こうからカツカツと歩み寄ってくる男が見えた。書類に目を向けたまま余所見をする事無く歩いているので、気をつけないとぶつかるぞーなんて心中だけで忠告すれば、彼はアリスンを呼びながらようやく書類から顔をあげる。
「アリスン侯、この書類だが……フィオナ?」
 バイオレットの瞳が僅かに見開くのを見て、フィオナはとりあえずひらりと手を振っておく。絶賛お仕事モードのエリオットと無駄話をする気はないので、休憩時間外に偶然会った時はいつもこれだけだ。
 その意図をしっかり理解しているのか、エリオットも特に何も言わずに振り返ったアリスンに持ってきた書類を見せながら、不明な点があったらしい箇所についての説明を求めている。
 そんなものは誰か代わりを寄越せばいいのに、自らの耳で聞いて理解しなければ気が済まないのがこの王子様だった。女にはだらしがないが、仕事は本当にきっちりとこなしてしまう彼は優秀には違いない。
 ――そういえば、最近、エリオットが女を侍らせてるのを見てない気がする。いつからだっけ。
 王子と侯爵の話を聞き流しながら考えていると、不意にぐっと手を掴まれた。
「フィオナ、行くぞ」
「え、は? ちょ、え、エリオット?」
 いつの間にか説明も終わったらしく、書類を持っていない方の手でフィオナを捕まえたエリオットはずんずんと元来た廊下を進み始める。
 意味も状況も理解できていないが抵抗したい訳でもないフィオナは、疑問符を浮かべ、実際に疑問をぶつけながらも素直に従うしかない。
 既にちゃんと足が完治している事も聞き及んでいるのか、エリオットはフィオナを気にする様子はなく無言で廊下を進み続けた。
 そうして辿り着いたのは執務室で、戻ってきた主がフィオナを連れている事に、待機していたらしいサイラスが僅かに目を丸くした。
 しかし、それはほんの一瞬。すぐさまいつも通りの微笑を浮かべると、何も言わずに会釈だけをして執務室を出て行く。
 何故出る! そう叫びたかったが、それを阻むようにソファに座らされ、フィオナは隣に座ったエリオットを見つめた。
 真剣な眼差しでこちらを見つめ返す彼は、少し痩せたような気がする。
「ぐだぐだ悩むのは飽きた。だから単刀直入に聞く」
「あ、ああ?」
「フィオナ、お前は俺が嫌いか?」
 その言葉を口にした一瞬、バイオレットの瞳が僅かに揺れた。苦しそうに陰がさした瞳に、胸の奥に埋まった心臓がきゅうっと締め付けられる。
 気付いた時には、首を左右に振って否定していた。
「私は嫌いな奴はとことん嫌いだ。話しかけもしないし、絶対に自分から近づいたりしない」
「……だろうな」
 ふっと笑った彼の含みのある言葉に、フィオナは首を傾げる。
 しかしエリオットは彼女が尋ねるより先に、次の問いを口にした。
「なら、見込みはあるのか?」
「え……」
「俺がお前の特別な存在に、お前の愛する存在になれる見込みはあるのか?」
 射抜くようなその眼差しに、言葉に詰まる。渇望するように強く、飢えたように必死で、すぐに答える事ができなかった。
 まだ半年の付き合いしかないが、それでもエリオットが決して悪い人間ではないことは充分すぎる程知っている。
 本来ならこうして向き合う事すら許されない、雲の上の存在だ。
 しかし彼は庶民だの勇者だのという目で自分を見ておらず、フィオナ・アルフォードというただ一人の人間を見てくれているのだという事は、普段の彼から察するのは難くなかった。フィオナだけではない、ダレルやクラリッサ、他の多くの人たちに関しても、彼は決して身分で考えずその人自身の人柄と能力のみを重視し、まるで友のように扱うのだ。
 いい男だ。容姿も身分も能力も、性格も。何もかもが申し分ない。これ以上の男がいるのかと聞かれても、フィオナには思いつかない。
 しかし、何かが足りないような気はした。完璧に近いようなこの王子を愛するには、何かが足りないのだ。
 その何かは彼女にもわからないが、その何かがわかるまでは、イエスともノーとも言えないと思った。
「……お前はいい奴だ。感謝も尊敬もしてる。だけど今はまだ、何とも言えない」
「……俺の頑張り次第では見込みはある、と捉えていいのか?」
「そう、だな。私も頑張るから、エリオットも頑張ってくれ」
 愛が何なのか。どうすれば愛せるのか。無知なまま育ったフィオナには、よくわからない。
 それでもぎこちなく笑みを浮かべてみせれば、彼は眩しそうに目を細めて優しく髪を撫でてくれた。
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