波紋

 それは決して、初恋なんて可愛らしいものではなかった。
 恐らくただの羨望、それが昇華した感情。焦がれるような感情を、クラリッサはサイラスに向けていた。
 今まで恋愛経験があった訳ではない。
 何よりも大切なのはいつだって幼馴染で、その内の一人にやはり羨望を向ける事はあってもそれは恋ではなかった。
 十数年の間、クラリッサはいつも幼馴染を追いかける事に必死だった。
 置いていかれる事はないと理解していても、一緒に歩いている筈なのに彼らと自分の歩幅は大きく開いているような気がして、二人に置いていかれないようにする事で精一杯だった。
 そんな中出会った彼は、少し自分に似ているような気がした。
 彼はいつでも自分が仕える主の事ばかりで、だからといって自分を疎かにしている訳ではないのだが、とにかく彼の最優先事項はいつだって一人の主人だった。
 いつも幼馴染の事ばかり考えていた自分と似ている。しかし、彼は自分とは違い大切な者を守れる力があった。
 とても羨ましかった。そして、強く憧れた。
 きっと始まりは、そんなモノ。


「……クラリッサ、泣いたのか?」
 そっと頬に触れた指先に、クラリッサはハッと我に返った。
 目の前には、ハの字に眉を下げたフィオナ。彼女は口元にクリームを付けたまま、心配そうにクラリッサの顔を覗き込む。
 クラリッサは心中で頭を振って、出来る限り優しく微笑んだ。
「昨日読んだ小説があんまり悲しい終わり方をするから、少しだけ」
「そっか。ならいいんだけど」
 相変わらずだな、と笑うフィオナはとても眩しい。
 何年経とうと、何があろうと、彼女の瞳の力強さは変わらない。
 フィオナの口元に付いたクリームを拭ってやると、彼女は照れ臭そうにはにかんだ。
「クラリッサの旦那になる奴は幸せ者だな。美人な上に、お菓子もこんなに美味いんだから」
「わ、私なんて……こんな事しか、できないもの……」
「だからお前は自信を持てって! 私なんか、料理も裁縫も何にもできないんだから」
 クラリッサはぎゅっと、ドレスを握り締めた。どうしたと言うのか、大好きな笑顔が今はとても憎らしい。
 フィオナはいつだってクラリッサを自慢の幼馴染だと言うが、クラリッサ自身は自分の誇れるものなど思いつかない。
 まるでそれを補うように彼女はお菓子作りや研究などを長所だと言っていくつでも挙げてみせるが、クラリッサにとってそれは当然の事。他人よりも優れている訳でもなく、むしろ劣っているからこそ努力して現在にまで至っただけの事なのだ。
 いつもなら、ただ照れ臭いような気持ちで受け止められるそれが、今は耐えられない。
 ドロドロと熱く淀んだ何かが心を蝕んでいく。自分が自分でなくなっていくような気がして震えるのに、止まらない。
 優しい無邪気な笑みで紡がれる自分の名前が、ひどく胸に痛かった。
「大丈夫だって。クラリッサは自分で思ってるよりも……」
「――フィオナは我侭だわ!」
 楽しげな声を遮るように発した言葉に、フィオナの瞳が見開く。それもそうだ。気弱なクラリッサが声を荒げる事など滅多にない。
 瞠目した瞳から逃れるように俯き、クラリッサは皺になるのも構わずにドレスを握り締め、細い肩を震わせた。
「フィオナは誰からも好かれるから、そんな事が言えるのよ! 私がどんな気持ちで一緒にいるかも知らないでっ……能天気に笑ってばかりで、っ殿下の事も、真剣に考えようともしない!」
「っ、クラリッサ……?」
「私、私っ……そんなフィオナが大嫌い!!」
 張り上げた叫びに、自分の耳を疑った。
 ハッと顔を上げると、呆然とするフィオナと視線がかち合う。
 その表情が見る見るうちに悲痛に歪んでいくのが見て取れて、しゅうしゅうと音を立てて頭が冷えていくのがわかった。
 勢いに呑まれて口走ったそれは決して本心じゃないのに、それを伝える為の口が何故か役にたってくれない。薄く開いても、声は喉に張り付いて出てこない。
 どうして。どうして。どうして。そればかりが頭を埋め尽くして、何がなんだかわからなくなってくる。
 堪らずクラリッサはその場を逃げ出した。
「――クラリッサ!!」
 背後から彼女が呼ぶ声が聞こえても、足を止められなかった。
 走る事は苦手で何度足が縺れようと、転びそうになる度に叱咤してただただ逃げた。
 ――フィオナを、傷つけた。私が、私が守りたかったのに。
 穏やかな筈の空気は、吸い込む度に胸が苦しくなる。
 まるで釘でも飲み込んでいる気分だ。じくじくと、胸が痛んで悲鳴を上げる。
 込み上げてくる熱は涙となり、静かに頬を濡らした。
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