遠ざかる背

『ごめんね、ごめんなさい。ありがとう』

 緑に囲まれたガゼボの中で、フィオナはくたりと上体を寝かせた。冷たい石の感触が、心地好くも物寂しい。
 脳裏に蘇るのは、幼き日に出会った小さな女の子だった。
 覚えば初めて会った時から、クラリッサは泣いてばかりだった。
 初めて苛めっ子から助けた時、彼女は泣きじゃくりながらまず謝った。どうして謝るのだろうと首を傾げていれば、何度か謝罪を繰り返してからようやく感謝の言葉を口にした。
 その日は彼女を家まで送って別れたのだが、結局次の日も気になってダレルと保育所の前で待ち伏せた。思った通り彼女には親しい友人がいないようで、出てきた彼女は俯いて暗い顔をしていた。
 堪らなくなって、門の影から脅かすように飛び出た。ばあ、なんて赤ん坊をあやすようにおどけながら。
 すると彼女は大きな瞳をぱちくりと瞬いて、また泣き始めたのだ。
 さすがに狼狽する二人にクラリッサは必死に嗚咽を飲み込みながら、またごめんなさいと謝る。
『また会いたいと思ってた。でも、わたしめんどうくさいから、嫌われたと思ったの』
 クラリッサという女の子は、いつでも泣いていた。
 そんな彼女が笑うようになったのはいつだろう。クラリッサが保育所から出てくるまで門の前で待ち伏せ、毎日日が暮れるまで三人で遊び回った。怖がりで泣き虫で、その癖彼女は絶対にフィオナとダレルの手を離そうとはしなかった。
 そんな幼馴染を守るのは自分の役目だと、ずっとそう思っていた。
「……だいきらい、か……」
 ――そんなの、初めて言われたな。
 フッと自嘲の笑みを浮かべて、走り去った彼女の背中を思い出す。追いかけようと動いた体はしかし、ズキリと痛む足に阻まれた。
 やはりとっとと魔術で治してしまうべきだったと思ったものの、やめた。
 今、クラリッサを追いかけて何が出来ると言うのだろう。自分を拒絶した彼女にどんな言葉をかけると言うのだ。結局それは自分本位なエゴで、またクラリッサを傷つける事しかできないんじゃないのか。
 それを考えると何も出来ず、ただ溜息を吐くしかなかった。
「……何が嫌いなんだ?」
「っわあ!?」
 不意に降ってきた声に、びくりと体を跳ねさせる。
 慌てて起き上がったフィオナが見つけたのは、怪訝そうな面持ちのダレルだった。
 鍛錬の最中だったのか程よく汗をかいたダレルは、ガゼボの中を見回してぐっと眉根を寄せる。
「クラリッサは? 一緒じゃなかったのか」
「あー……今、逃げてった……」
 珍しく歯切れの悪いフィオナにますます眉間に皺を刻んだダレルだったが、その一言でおおよそ状況を把握できたようだ。重々しく溜息を吐いて、フィオナを見据える。
 彼の視線に居心地の悪さを感じながら、フィオナはその身を縮めた。
「……ダレルは知ってたか? クラリッサが、その、私のこと……」
「嫌いだと? 知らなかったが、お前はそれを真に受けているのか?」
「だって、本人が言ったんだぞ? クラリッサが嘘吐かないのは知ってるし、冗談、とも思えないし……」
 弱虫で泣き虫な彼女だから、ああやって微笑みかけてくれる以上自分は絶対に好かれているのだと信じきっていた。
 時間が経てば人の気持ちなど変わる。その事を失念していた。
 仕舞いには口ごもる始末のフィオナにもう一度溜息を吐き出し、ダレルは彼女の頭を少々乱暴に撫でた。
 髪を掻き混ぜるようなそれに奇声を上げたフィオナは、訳がわからないといった視線をダレルに送る。
 それをきちんと受け止めて、ダレルは呆れたように腕を組んだ。
「何度も言っただろう。お前は考えるのに向いていないんだ。他人の気持ちなんて、聞かないとわからないぞ」
 ハッキリとした口調のそれに、フィオナは僅かに見開く。
 果たして、自分はちゃんとクラリッサの本心を聞いただろうか。
 彼女は明らかに平静ではなかった。あんなに取り乱した彼女を見るのは初めてだ。
 クラリッサの心をかき乱したのは自分に違いないが、あの時放った言葉すべてが本当に彼女の本心だとは思えない。思いたくない。
 ゆっくりゆっくり彼の言葉を咀嚼していき、それを飲み込んだ時、既に立ち上がっていた。
「ダレル、ありがとう! ちょっと行ってくる!」
 ああ、と短く応えてくれる幼馴染に背を向けて、フィオナは走り出す。
 痛む足は後回しにして、胸の痛みを取り除く為に。


  *


 緑生い茂る木の幹に背を預け、男は深く息を吐き出した。
 肺にある空気を全て出し切るほど、深く深く吐いて――そうすればこの胸を覆う不快感も、吐き出せるような気がした。
 しかしそんな事が出来る筈もなく、彼は小さく自嘲の笑みを浮かべる。
「結局……長く付き合ってきた奴には敵わない、か……?」
 遠くなっていく背中を想いながら――エリオットはそっと、目を伏せた。
Copyright (c) 2012-2013 Ao Kishibe All rights reserved.
 
inserted by FC2 system