ロコの森

 はあ、と気の抜けた声を漏らすフィオナを見つめて、目の前の女は懇願するように胸の前で手を合わせた。
 フィオナは彼女に見覚えがあった。
 何度か城内で見かけた事があり、『貴族の令嬢だかなんだかよくは知らないがとりあえず偉い人』という認識でしかないのだが、藤色の髪はゆるく巻かれ、円らな瞳や豊かな胸など美人であることには変わりないと思う。時々、あのエリオットと一緒にいる所も見た事があった。
 名前すら知らない彼女は、初めて声をかけてきたと思えば、突然一つのお願いをしてきたのだ。
「昨日、ロコの森でわたくしの猫が逃げ出してしまいましたの。お願いします勇者様、探してくださいませんか?」
 との事だった。
 よくよく詳しく聞いてみれば、自ら探しに行きたい所ではあるが一人で外出など許してもらえる筈も無く、唯一連れてきた侍従も彼女を放って猫を探しに行く事は出来ないのだそうだ。
 フィオナなら兵士よりも腕が立つので危険もなければ、仕事もない。頼み事をするには打って付けだと思い、こうしてお願いに来たらしい。
 確かに彼女の言う通り、フィオナは暇だ。今日はクラリッサとの約束も、稽古を見る約束も何も無い。
 丁度いい暇潰しだと考える事にして、フィオナは猫探しを引き受けた。
 すると彼女は愛らしい瞳を嬉しそうに輝かせて、ぎゅっとフィオナの手を握る。
「さすが勇者様、お優しいわ!」
「えっと……その、勇者様というのはやめてもらえませんか?」
「では、フィオナ様で宜しいですか? 申し遅れました。わたくし、アイリス・レヴァインと申します。どうぞ、アイリスとお呼び下さい」
 ふふ、と柔らかく微笑んだアイリスに、これならエリオットが誑し込むのも無理は無いとフィオナは変な納得をしてしまった。
 今まで彼の傍にいた女にいい目を向けられた事は無かったのだが、彼女の眼差しは純粋に引き受けてもらった事を喜んでいるように見える。
 握られたままの手をどうすればいいのか迷いつつも、フィオナは眉を下げて微笑んだ。
「それで、探してほしいという猫はアイリス様のペット……でいいんですか?」
「ええ。ダイナという名前の、わたくしの大切な友人ですわ」
「友人……」
「昔からあまり外に出して貰えなかったので、彼女がわたくしの一番の話し相手ですの」
 お恥ずかしい、とはにかむ彼女に、フィオナは僅かに眉を寄せた。
 貴族や名家など無縁の生活を送ってきた所為で彼らの事はよくわからないが、恐らくフィオナ達とは正反対の暮らしなのだろうと思う。フィオナが街を駆け回って遊んでいた時、彼女は家の中で貴族としての教養を叩き込まれていたに違いない。
 そんな中で大切にしてきた友人を失うのは、フィオナにとってダレルとクラリッサを失うことと同じだ。
 今まで二人がいなくなるというのを考えた事すらなかったが、考えるだけで胸の奥がキリキリと痛む。
 フィオナは、華奢で綺麗な手のひらをぎゅっと握り返した。
「わかりました。きっと、私が無事に連れ帰ってきます」
「まあ、本当ですか! ありがとうございます」
 ぱあっと輝く宝石のような瞳を見て、フィオナはなんとしても見つけ出そうと心に決める。
 そんな彼女に、アイリスは嬉しそうにはにかんだ。
「ダイナはグレイの猫で、目は丁度フィオナ様のようなエメラルドをしています。リボンの付いたピンクの首輪をしていますから、すぐにわかると思いますわ」
「グレイにエメラルドの瞳、ですね」
「はい。城の者にはわたくしから伝えておきますわ」
「それは助かります」
 きっと誰かに言った時には、皆が手伝うと言ってついてくることになっただろう。それではわざわざ彼女が自分に頼んだ意味が無い。
 ここに仕える人はお人好しばかりだからな、とつい苦笑を漏らす。ここは彼女の厚意に甘えた方がよさそうだ。
 どうかお気をつけて、と手を振るアイリスに見送られ、フィオナはすぐさまロコの森へと向かった。


 ロコの森。城下町から徒歩三十分の場所に、それはある。
 隣町エルディアとを結ぶ道から少し外れたその森は、何か珍しい物がある訳でもない為に滅多に人が寄り付かない。それ故、ならず者が行き来することも多く、尚更人々が近寄ることはなかった。
 そんな森に足を踏み入れるのは、一体何年振りになるのだろう。実に感慨深い気持ちで、フィオナは道無き道を歩く。
 端っことはいえ城下町に住んでいたフィオナは、勿論この森の事は知っている。
 しかし、彼女に恐れなど全く無かった。
 何しろ幼い頃はこの森での肝試しが流行っており、何度も分け入っては『入ってみろよ!』などと偉そうな事を言う苛めっ子達の肝を逆に冷やさせた程で、彼女にとっては迷う心配もない一般道と同じだ。
「ダイナー! おーい、出てこーい」
 地道に草木を分けながら、アイリスから聞いた名前を呼び続ける。
 ここでようやく、見ず知らずの彼女が呼びかけても怯えるだけかもしれないという考えに至るのだが、今更どうしようもない。逃げたら逃げたで追いかければ済む話で、むしろ木に登って威嚇してくれた方が捕まえやすいとすら考えた。
 鳥の羽音や木々の囁きに混じって、フィオナの高い声が響く。
 ロコの森にはいくつかの動物がいるとされているが、蛇などの危険な動物は見た事が無い。
 ――そういや、一回だけ泣きながら追いかけてきたクラリッサが狸にびっくりして腰抜かしたっけ……。
 懐かしい思い出にクスクスと笑みを零したフィオナだったが、すぐにその笑みは止んだ。
 鋭く翠玉の瞳を細め、背後へと意識を向ける。まるで時が止まったかのように静寂が包む森の土を強く踏み締め、腰にさした剣へと手を伸ばした。
「……誰だ。コソコソせずに出てくればいい」
「……なんだあ? 随分血の気が多そうな女だな」
 声音を低く告げたフィオナの背に、間延びした男の声が届く。そこで初めて振り返ったフィオナは、数人の男達を視界に捉えた。
 手にはナイフや剣、顔には傷を持つ彼らは、明らかに善良な一般市民ではなさそうだ。大方、ここを溜り場にしている盗賊などだろう。
 剣を抜く事無くただ見据えるだけのフィオナに、男達はニタニタと笑う。
「おめー、一人の上に剣一本で俺達に勝つつもりか?」
「残念ながらそのつもりだ」
「っく、ははは! 馬鹿かお前!」
 下卑た笑みを浮かべるだけだった男達が、腹の底からといった様子でゲラゲラと笑い始める。嘲笑の渦の中で、フィオナはそっと溜息を吐いた。
 世界を救った勇者様の顔を知る者は少ない。
 当時、他国からも崇高な志のもと魔王を倒す為に旅をしていた一行は数多くあり、その為道中で立ち寄った街でも、顔は覚えられていたとしてもまさか魔王を倒した張本人だとは思われない。
 帰国してからは特に、エリオットが変な輩に狙われないようフィオナ達の存在を隠している。さすがに城下町では知れ渡っている勇者様も、一歩外に出れば緘口令のお陰でただの人だ。
 この方がかえって絡まれやすいんじゃないのかと疑問を胸に秘めながら、フィオナは肩を竦めて剣を抜いた。
 途端に止む、嘲笑。男達はギラついた目で、まるで値踏みするように彼女を見る。
「悪いが、私は幼馴染の所為で気が長くない。私を馬鹿呼ばわりして悪態だけで済ませてやれるのは、私が許した奴らだけだ」
「へえ……? じゃあ俺達はどうなるんだい、お嬢さん」
 獲物を狙う肉食獣よろしく、男達は少しずつ少しずつ彼女を囲んでいく。
 それでもフィオナは臆するどころか眉一つ動かさず、フッと冷笑を浮かべた。
「心配するな。これからちゃんと教えてやる」
「ハッ、ほざいてろ! 後で泣き叫んでも知らねえぞ!」
 正面の男が卑しく吐き捨てたのと同時、フィオナは剣を振り翳した。
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