思惑知らず
「フィオナが足りん」
凜と宣言する主の姿を前に、側近は重々しく溜息を吐き出した。
しかしエリオットは気にした様子も無く、机に頬杖をつき完全に署名の手を止めてしまった。
今朝からサイラスの見張り付きで執務に勤しんでいたエリオットは、まだフィオナの姿を見ていない。これではわざわざ城に置いている意味が無い。
仕事を再開する気配の無いエリオットの隣で、サイラスは懐中時計を見遣る。
昼食を取ってまだそう時間は経っていないが、この調子で進めれば充分余裕がある。少しくらいは休ませても大丈夫だろう。
そう判断し、懐中時計を閉じた。
「……フィオナ殿のお茶をご用意した方が?」
「そうだな。面倒だ、連れてくる」
「我が主ながら素晴らしい横暴振りです」
にこりと微笑む側近に「褒め言葉だな」と不敵に笑い、エリオットは執務室を後にした。
記憶の中で、フィオナではなくダレルとクラリッサの今日の割り当てを思い出す。
ダレルは午後の『紡人の門』の警備に当たり、クラリッサは研究で籠もりきりだ。
フィオナは暇さえあればふたりとつるんでいる節があるが、仕事の邪魔は決してしない。つまり、ふたりと一緒にいる可能性は少ないだろう。
面倒だなと心中でぼやき、虱潰しに彼女がお気に入りとしている場所をあたるしかないだろうと足を進めていると、不意に背後から呼び止められた。
高い声音に振り返ると、アイリスが藤色の髪を揺らして駆け寄ってくる。
「御機嫌よう、殿下。お急ぎのようですが、どちらへ?」
「アイリス、フィオナを見かけなかったか?」
ご機嫌に微笑んでいたアイリスの表情が、彼の口から紡がれた名前一つで瞬く間に変わった。
むっと眉間に皺を寄せて、不快感を露わにする。
「……お見かけしていませんが」
「そうか」
「彼女がいらっしゃらないのなら、わたくしがいくらでも代わりをして差し上げますのに」
早々に立ち去ろうとしたエリオットの足が、ピタリと止まった。
彼の腕を掴み引き止めた張本人であるアイリスは、円らな瞳で彼を見つめる。
そんな彼女を見て、エリオットはやれやれといった様子で肩を竦めると、彼女の手をそっと解いた。
「アイリス、あいつの代わりには誰もなれない」
最後に残された謝罪が、彼女の胸の奥で重たく響く。
それは一体、誰への謝罪だと言うのだろう。徐々に苛立ちが膨らんでいくのを感じながら、駆け足で去っていく彼に背を向けた。
カツカツと靴音を響かせて廊下を進んでいると、彼女の侍従が寄ってくるのが見え、アイリスは足を止める。
侍従は周囲を気にしながら、そっと彼女の耳元で囁いた。
それを聞いた彼女の瞳が一瞬見開き、また苛立ちに染まっていく。
「……そう、使えないわね」
「どうなさいますか?」
「駄目なら他の奴を使うだけよ。適当に金をやって、女は好きにしていいから。あの女が二度とここへ帰ってこないなら、殺したって構わないわ」
「……御意」
一度頭を下げてまた離れていく侍従に一瞥もくれることなく、アイリスは苛立ちをぶつけるように爪を噛んだ。
*
どうしたもんか。フィオナは考える。
目の前に転がる男達は気を失っているのか、ピクリとも動かない。
人間と喧嘩をするなど久し振りだったが、ろくに魔術の使えない人間など容易い。峰打ちなり何なりで適当に相手をして、相手がこちらへ攻撃してこなくなるならそれでよかった。
多少かすり傷を負ったのみのフィオナ。いくら自分の所為で負傷した男達とはいえ、襲ってきた奴らを進んで病院に送ってやるなどという良心は持ち合わせていない。どうしたものか。
たっぷりと十五分程腕を組んで考え、フィオナは放置という結論に至った。
無事に猫を見つけて戻ってきてもこのままなら、病院へ運んでやってついでに治安部に突き出そう。もし姿を消していれば、それはそれでいい。人相は覚えたから、すぐに手配がされるだろう。
よし、と気を取り直して猫探しを再開する。
「ダイナー! おーい!」
フィオナはずんずんと森の奥へと進んでいく。やはり記憶の中とは多少異なってしまっているが、迷うほどの違いはない。
存外、自分は記憶力が優れていたのかもしれない。そんな事を考えながら突き進んでいると、不意に足元の地面が沈んだ。
は、と声が千切れる。もがく間もなくフィオナは重力に引っ張られ、地中へと引きずり込まれた。
「……っう、く……」
思わず閉じた目を、ゆっくりと開ける。打ち付けた体のいたる所が痛んだ。
黒い木々の影の隙間から、青い空が覗いている。まだ昼間には違いないというのに、太陽の光が届きにくい所為かやはり薄暗い。
正面にある空が遠いのは当然なのだが、まるで壁のような物が彼女を囲んでいる。
ああ、そうか。そう心中でひとりごち、ここが所謂穴の中であることを理解した。
「クソ……誰だよ、落とし穴なんか作ったの……」
子供の頃は落とし穴などどこにもなかった筈なのだが、最近の子供が作ったのだろうか。
魔物が出なくなったからと簡単に子供を出入りさせるな、とフィオナは自分の事は棚に上げて思う。
何はともあれ、早くここから出なければ。フィオナはゆっくりとその身を起こした。
その時、ズキリと右足に刺すような痛みが走る。全身擦り傷や打撲で痛い事には変わりないが、どうやら足を捻ってしまったらしい。
「……嘘だろ……」
呆然と呟き、フィオナは土の壁に背を預けた。
もし足の捻挫が無ければよじ登る事も可能な深さだが、さすがにこの足では無理がある。一瞬魔術で治してしまおうかと考えたが、すぐに首を振った。
旅路で、ダレルに再三無闇に魔術を使うなと注意された。魔力をいらずらに浪費して、本当に必要な時に使えなくては意味がない。急を要するのでなければ、なるべく魔術に頼らず治すべきだと。
ここがロコの森である以上、誰かが通りかかる可能性は低い。しかしさすがに日が沈めば、城から誰かしら探しに来てくれる筈だ。衝撃で壊れてしまった懐中時計を見ても日没までまだ時間があるが、なんとかなるだろう。
コツン、と頭を壁に付けて、フィオナは空を仰いだ。
「……ダイナー! 出ておいでー!」
穴の中で反響した自分の声を聞きながら、フィオナは猫の名前を呼ぶ。
きっとこのまま帰れなければ、あの幼馴染達は心配してくれるのだろう。幼馴染だけではない、兵士や仲良くなった侍女達、そしてエリオットやサイラス。あの城の者達が心配してくれるに違いない。
同じく、ここまで探しにきた未だ見ぬ猫も、主人がとても心配している事を彼女は知っている。ただの飼い猫ではなく友人とまで言うのだ。大切に大切に育てられてきたに違いない。
たとえ城からの迎えが来て情けない姿で帰ることになったとしても、手ぶらで彼女の前に立つ事は出来ない。元々今日中に見つからなければ明日も来る気でいたが、この足では止められるに決まっている。なんとしても、自分が発見されるより早く猫を見つけなければならない。
「ダイナー! 頼むから、出てきてくれよー」
猫どころか鳥すら姿が見えない事に少し落胆して、フィオナは深く溜息を落とした。世界を救った勇者が猫一匹見つけられないなんて情けない。
もう無理をしてでもよじ登ってやろうかと思った時、
「――おい」
穴の中を覗きこむ影があった。
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