充電中

 甘い匂いが鼻をくすぐる。
 それに引き寄せられるように浮上した意識の中で、エリオットは一瞬菓子の匂いかと考えたがすぐに首を振った。これはどちらかといえば花の、それを模した香水の匂いだ。
 うっすらと開けた目で窓を見ると、白い朝日が差し込んでいる。まだ早朝のようだ。
 執務室からさほど離れていない仮眠室として使っているこの空き部屋には、二人分の呼吸音しかしない。
 気だるい体を動かし起き上がると、隣で寝ていた女が小さく身じろいだ。
「……殿下……?」
「……おはよう、レディ」
 どこかぼんやりとした視線を受け止めて、エリオットは努めて朗らかに微笑む。
 徐々に現状を理解していった彼女はそのうちのそのそと起き上がり、彼に抱きついた。
 体当たりに近いそれを難なく受け止め、エリオットは彼女の名前を呼ぶ。
 女は彼に押し付けていた顔を上げ、円らな瞳で彼を見つめた。
「ねえ殿下、いつになったらわたくしを娶ってくださるの?」
「……アイリス、またその話をするのか」
 はあ、と溜息を吐いた彼に、アイリスはむっと顔を顰めた。
 彼女は有力貴族のレヴァイン伯爵家の令嬢であり、現在次期国王の妃候補の中でも最有力とされている。
 エリオット自身は妃候補を選んだ覚えも彼女を推した覚えもないのだが、城下では実しやかに囁かれているそうだ。
 最も、それは城下のみの話だが。一歩城内に入ってしまえば、そんな噂話は全くといってない。以前は城下と同じようにアイリスがそうだろうと言う者も多かったのだが、今となってはほとんどの者がその考えを変えざるをえなかった。
 たった半年ではあるが、エリオットの様子を見ていればよくわかる。側室の望みは残っているにしても、彼女が正室になる事はまずないだろうというのが、現在、城にいる者達の見解だった。
 アイリスはぎゅうぎゅうとその豊かな胸を彼に押し付けて、むくれた子供のような目でエリオットを見上げる。
「わたしくの何がご不満なの? わたくしなら家柄も何もかも、殿下に見合いますわ。殿下を引き立てることだって」
「悪いが、そういう問題じゃないんだ。そもそも、それを承諾した上でここにいる筈だろう」
「ええ、承諾しましたとも。けれど、本当に何年も体を重ねるだけの関係だとは、誰も思いませんわ」
「俺はちゃんと言ったぞ。それでもいいなら、望み通り傍に置いてやると」
 ますますむうっと顔を顰める彼女を引き剥がして、エリオットは傍に置いておいたシャツを着込む。
 ボタンを留めている内にまた溜息が零れて、逃げた幸せは一体どこへ行くのだろうと下らない事を考えた。
 未だベッドの上で不満をぐちぐち言っているアイリスを華麗に無視し、エリオットは早々に部屋を出た。まだ早朝の為か、人の行き来は少ない。
 ――ただでさえ疲れているっていうのに……。
 結局、昨日はフィオナに会う事は叶わなかった。彼女を城に置くようになる前までは、こういう時には適当に甘い菓子類をつまんでやり過ごす事が常だったが、今ではもっぱらその役割はフィオナだ。
 甘ったるいケーキよりも、フィオナと軽く話す方が効果が抜群に高い。そんな彼女に丸一日以上会っていない今、まさしく充電切れだった。
 はあ、と堪らず溜息を吐き出し、頭をかく。まだ側近が起こしに来るまでは時間がある。
 寝室で二度寝をしようと踵を返した時、こちらに向かってくる女を見つけて思わず足を止めた。
 彼女はエリオットより先に彼の存在に気付いていたのか、そう驚いた様子も無く駆け寄ってくる。
「おはようエリオット、随分と早いんだな」
「あ、ああ……フィオナこそ、いつもこんな時間から?」
「いや、最近少し体が重くなった気がして。ちょっと走ってきた」
 勇者までメタボじゃ格好がつかない、と苦い顔をした彼女の肌にはうっすらと汗が浮かんでいる。
 ついついぽかんと間抜け面を晒してしまえば、フィオナは可笑しそうに目を細めて「折角の顔が台無しだな?」と笑った。無邪気な笑みに胸がじんと熱くなる。
 ――ああ、駄目だ。
 そう思った時にはもう遅い。
 エリオットは彼女を抱えて、まっすぐに寝室へ走った。
 びくりと体を強張らせたフィオナが、落ちるのを恐れてか必死にしがみ付いている。彼女に気付かれないようくつくつと笑いながら、エリオットは辿り着いた寝室のベッドに彼女を抱えたまま飛び込んだ。
「うわっ!? エリオット! お前は私を何だと思って……っ」
「悪い、フィオナがあんまり可愛いから」
 ベッドの上に弾んだ体を抱き締めれば、顔を赤らめた彼女が抵抗を示す。
「やっ、馬鹿、離せ! 今、汗かいて……」
「ああもう、大人しくしろ。サイラスが来るまで抱き枕にされるのと犯されるの、どっちがいいんだ?」
 びく、と強張った体が彼を拒むことをやめる。つまりそれが答えだと充分理解しているエリオットは、唇を結んで睨みつけてくる彼女の金髪を優しく梳いた。
 甘ったるい香水の匂いよりも、程よく火照った体を伝う汗の匂いの方がいい。愛らしい猫撫で声よりも、飾り気のない怒声の方がいい。そう思ってしまう自分はおかしいのだろうか。
 ついつい苦笑が零れてしまうのを感じながら、不満だと訴えてくる翠玉の瞳を見つめた。
 ――……この俺が、キス一つ躊躇うことになるなんてな。
 恐らく簡単に奪えるだろうそれが、何故かこの世で一番難しいことのように思える。
 そんな自分に笑いながら、愛しい女の体温を感じてエリオットは瞼を閉じた。
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