目覚め

 少しずつはっきりとしてくる意識の中、腕の中にあるぬくもりに違和感を覚えた。
 果たして、自分はこんなに柔らかくあたたかい物を持っていただろうか。いや、これは人肌に違いない。だが、こうして誰かを抱き締めて眠るなんて考えられない。
 ぐるぐると考えながら気だるさの残る思考に区切りをつけようと、エリオットはゆっくり目を開ける。
 薄暗く、窓から差し込む太陽の光のみが照らした室内。昼間とあり、充分よく見える。だからこそ、エリオットは一度固まった。
 自分のすぐ傍で無防備に眠る、フィオナを見て。
 ――どうしてお前はそう……っ!
 怒鳴り散らしたくなる衝動をぐっと堪え、エリオットは自身を落ち着けるために息を吐く。
 そうだ、自分が連れ込んだんだった。それなら彼女がここにいるのは当然である。だが、自分を狙っている男の前で眠ってしまうのは如何なものか。
 少しずつ平静を取り戻していって、改めてフィオナを見つめる。眠りに落ちる前は強張っていた体の力も抜け、大人しくエリオットに身を委ねている。
 普段からそうしてくれればいいのにとは思うが、すぐに首を振った。それでは面白くない。少々反抗的で、跳ね返りなくらいがちょうどいい。
 顔に掛かった髪を耳にかけてやると、彼女が僅かに顔を顰める。しかしそれもほんの一瞬。すぐに穏やかな寝顔を見せるフィオナにくすりと笑みを零すと、定時を知らせる鐘が鳴った。
 それと同時に聞こえるノック。ああ、くそ。そんな気持ちでいるエリオットを知ってるのか、静かに扉を開け入ってきた男はにこりと笑みを浮かべた。
「遅ようございます殿下、お仕事のお時間ですよ」
「相変わらずお前はそつがなさ過ぎて気味が悪いな」
「褒め言葉として受け取っておきます」
 受け取るな、と苦虫を噛み潰したような顔をする主を前に、側近は爽やかに微笑むだけだ。
 エリオットの唯一の側近であるサイラス・ハミルトンは、実に優秀な男である。事務処理能力は勿論の事、戦闘能力も高く、側近というよりもエリオットの護衛という意味合いが強い。
 その上整った顔は常に微笑を浮かべており、物腰も柔らかい彼は当然のように女性からの人気も高い。しかし主人とは違い一切女の影はなく、どれだけ世話をかけさせているのだと以前父親に叱責された事すらある。
 だがエリオットは主張したい。自分が世話を焼かせているのではない、勝手に焼かれているのだ。幼い頃から自分の傍にいたこの男は、まるで母親のようにエリオットの面倒ばかりを見ようとして他を顧みない。
 もう三十路なのだからさっさと女を見つけて結婚しろ。そして家庭を持って、俺の面倒ではなく妻子の面倒を見ろ。愛妻家にでも親馬鹿にでも何にでもなれ。
 側近という地位を剥奪したい訳ではなく、サイラスの為にも自分自身の為にも心の底からそう思うのだが、そう言った所でこの男は「殿下が万一落ち着く事が出来たら、考えてみましょう」と微笑むだけなのだから嫌になる。
 幼い頃から自分を知っている分、エリオットはサイラスの裏をかけない。信頼はしているが、非常にやり辛い相手には違いなかった。
「それにしても、フィオナ殿が無事のようで何よりです」
「手を出した所でお前は止めはしないんだろう」
「ええ、それが殿下のご意志ならば。私は貴方に従うのみです」
 たおやかに微笑んでみせたサイラスは、秘色の瞳を細めて未だ眠りから覚めない女を見つめる。
「……自室に女性を連れ込みたくなかったのでは?」
「阿呆、こいつは別だ。むしろここに縛り付けたいくらいだ」
 不快そうに吐き捨てたエリオットに、それをせずに踏み止まっている事を褒めるべきだろうかと真剣に考えさせられるほど、彼は勇者殿に心酔している。女遊びをやめない彼に疑う者もいるが、一番長く、一番近くにいたからこそわかる。エリオットは本気だ。
 どんなに美しい娘を連れ込もうと、決してこの部屋には踏み入れさせなかった。自分のプライベートだけは絶対に晒したくはないと、どんな女でも来るもの拒まずの姿勢であるエリオットが頑なに拒絶してきた。
 その場所に今貴女はいるのだと、教えてやったら彼女はどんな顔をするのだろう。
 教えてしまいたい、しかしそれもエリオットは拒む。今も視線で言うなと命じている。
 サイラスはエリオットに否を唱える事はない。注意や軽口を叩く事はあっても、彼の意志をひたすらに尊重する。それは、自分の決断に間違いはないと自信に満ちた主を信頼している証明でもあった。
 しかしそれも、ことフィオナに関しては全くといって自信などなくなってしまうのだが。
「さて殿下、そろそろ起こして差し上げなければ。いつまで経っても執務が片付きませんよ」
「お前は立派な小姑になりそうだ」
 ぐっと眉間に皺を寄せたエリオットが、渋々といった様子でフィオナの肩を揺する。それでも優しく彼女の名を呼ぶ声は甘く、それに誘われるように目覚めた彼女を見つめる眼差しはただ愛しみだけが浮かべられていた。
 寝起きの所為でぼんやりと自分を見つめるフィオナを抱き締めて、そうっと頬を撫でる。
「なかなかいい寝心地だったぞ、抱き枕殿」
「え? ……あっ!」
 ようやく覚醒した彼女の頬が、耳が、首筋が、一瞬で朱に染まっていく。
 それを見てくつくつと笑った王子が勇者の拳を鳩尾にくらうのは、そのすぐ後の事だった。
Copyright (c) 2012-2013 Ao kishibe All rights reserved.
 
inserted by FC2 system