襲撃

 フィオナは走った。半年前、帰郷した時に護身用だと言ってエリオットから渡された剣を腰に下げ、煙が見える方角にただ走った。
 この時には既に、フィオナを駆り立てる焦燥感は執務室を出た時の倍には膨れ上がっていた。
 執務室の窓からは見えなかったが、煙が上がっているのは決して一箇所ではなかったのだ。廊下を駆け抜け、城下へ飛び出して初めて気がついた。
 ざっと見回しただけでも、南と南東、南西の三箇所。どれも規模は決して小さくはない。城下町は既に困惑した住民で溢れ返っている。
 フィオナは堪らず舌を打った。
 これは本当にただの火事だろうか。二箇所なら、まだ偶然で片付ける事もできるだろう。だが、三箇所も同時に火事が起きる確率は一体どれだけあるというのだ。
 いくら学が無いフィオナでも不審に思う。火災現場に近付くにつれ喧騒が大きくなるのを感じていると、突然ピリリと肌を刺すものを感じた。
 ハッと足を止めた瞬間、爆発音が空気を震わせた。熱を帯びた風が吹き抜けた場所へ弾かれたように振り返れば、先の三箇所と同じく黒い煙が濛々と立ち込めている。
 記憶の中から、その煙を吐き出している場所が一つ通りを挟んだ宿屋だと気付き、フィオナは考えるより先にそちらへ駆け出していた。
 治安部は既に他の火災現場の対応に追われているだろう。宿屋に到着するには時間がかかる。
 何よりも気にかかるのは、爆発の直前に感じた殺気に似た物だった。
 厳密には殺気ではない、だが限りなくそれに似た他の何か。それを自分は知っているようで、しかし思い出せない。
 逃げ惑う人々を避け、人家の間の狭い路地を通り抜ける。幼い頃から走り回った街を全く違う心境で走り、宿屋の前に出たフィオナは、一瞬息を詰まらせた。
 赤と黒。木製の宿屋はその二つに包まれていた。纏わりつくように炎がうねりを上げ、空さえも焦がさんと煙を舞い上げる。
 ぐっと拳を一度きつく握り締め、燃える宿屋を呆然と見上げる主人を見つけ声をかけた。
「おじさん! 何があった!?」
「あ、ああ、フィオナ! それが、さっぱりわからなくて……煙がたくさん上がってるもんだから何事かと外に出ていたら、突然爆発みたいな音がして、一瞬でこの有様だ……っ」
 主人はやはり動揺しているらしい。長年暮らしてきた我が家が燃えているのだ。無理もない。
 彼の代わりに近くに住む住人達が水をくんだバケツやホースを手にしているのを見て、フィオナは主人の肩を軽く叩いてからそちらへ駆け寄った。
 やはり顔馴染みの彼らはフィオナを見つけると、驚いたような、けれどどこかほっとしたような顔を見せる。
「フィオナ! ちょうどよかった、あんたも手伝っておくれ! このままじゃ燃え広がる一方だ!」
「ああ! 勿論そのつもりだけど、それより中に人は……」
「わかんねえよ! みんな煙を見てたんだ! 中から声は聞こえないが、治安部でもねえ俺達があん中入っていったって丸焼きになるだけだ!」
 怒鳴るように八百屋の親父が言って、ホラ早く手伝えとバケツを押し付けてくる。
 ぐっと眉間に皺を刻んだフィオナは一度宿屋を見上げ、何かを決意したような表情をすると、バケツの中の水をかぶった。
 金糸のような髪が顔に張り付き、フィオナは乱暴にそれをかき上げる。唖然とするのは親父や周囲にいた者達ばかりで、空になったバケツを親父に突き返すと宿屋に向かって走り出した。
 ハッとした親父が怒鳴る。
「コラてめぇ馬鹿フィオナ! この勢いじゃいくらお前でも危ないだろうが!!」
「私なら多少怪我したって治せる! 治安部が来るまで待ってられない!」
 唾を飛ばしながら引きとめようとする親父に目もくれず、フィオナは今や形ばかりとなった宿屋の扉を蹴破り、中に飛び込んだ。
 顔馴染みたちの悲鳴に似た声も、中に入ってしまえば炎が宿を食らう音と柱や壁が崩れる音しか聞こえない。
 じりじりと肌を焦がすような熱に顔を顰めるが、左腕を口元にあて、フィオナは構わず足早に奥へと進んだ。
 主人と顔馴染みであったとしても、宿屋を利用した事がないフィオナには中の構造はほとんどわからない。知っている事といえば、四階建てという事くらいだ。
 受付だったのだろうカウンターの隣にある階段を上り、客室らしい扉が並ぶ廊下に出る。炎の眩しさに目を細めた。
「おい! 誰かいるか!」
 炎は煙と同じように上へ行こうとする性質がある。出火場所がどこかは定かではないが、炎の勢いを見る限り宿屋の奥の方から燃え広がっているようだ。
 煙を極力吸わないように気をつけながら必死に声をかけ、炎が少ない所を足早に歩きながら部屋をさっと確認するが人がいる様子はない。次の階に行った方がよさそうだと判断し、踵を返した時だった。
 僅かな殺気を感じて、咄嗟に剣を抜いた。振り返り様に振るった剣は鈍い音を立てて何かにぶつかり、衝撃がびりびりと腕に伝わってくる。
 剣が受け止めるそれが黒い刀身を持つ剣だと理解した時、フィオナはそれを握る男を睨みつけた。
 炎に照らされた男は動きやすそうな軽装だが、顔の大半を黒い布で巻いて隠している。唯一覗く赤い瞳がフィオナを映し、僅かに細まった。
「ほう……今の殺気に反応するとは思わなかった。相当な手練と見受けるが、お前が勇者か?」
「……人に尋ねる前に自分が名乗れ。常識だろうが」
 疑う余地もなく怪しい男に、フィオナは不快そうに吐き捨てた。
 二人の間で悲鳴を上げる剣は徐々にフィオナが押され始め、単純な力勝負では勝ち目などない事を悟り、強引に黒い剣を弾き返し、一歩男から距離をとる。
「……まさか、お前がこの騒動を引き起こしたのか?」
「そうだ。俺は勇者に用がある。こうして騒ぎを起こせば、正義感の強い勇者は必ず現れるだろう?」
 男は悪びれる様子もなく答え、左手をフィオナに向かって掲げた。
 そこに詠唱もなく白い光が集まるのを見て、フィオナはざっと周囲を見回す。しかし、隠れられる物も盾になりそうな物も何もない。
 苛立ちに任せて舌を打ち更に距離をとろうとした時、ハンドボールほどの大きさにまでなった光の玉が、男の手から放たれた。目が眩む程の光の量に、視界が塗り潰される。
 このままだと直撃する。そう本能が警鐘を鳴らすもフィオナにはどうする事もできず、せめて衝撃を逃がそうと受身の姿勢を取った。
 そうして光の玉が目の前まで来た瞬間、バチンとそれが何らかの力によって弾かれるのを見た。弾かれた光は男の方へと向かい、かわした男の後方で炭と化し始めている柱にあたって小爆発を起こす。
 何が起きたのかわからず呆然とするフィオナを見つめ、男は怪訝そうに眉を寄せた。
「……魔石か」
 呟いた男の視線が自分の胸元に注がれているのに気付き、フィオナはネックレスを見遣る。
 以前クラリッサに貰ったそれは淡い光を放っており、このお陰で助かったのだとすぐにわかった。
 幼馴染に感謝して、きゅっとエメラルド色の石を握る。
 男の瞳は炎に照らされて、ゆらゆらと怪しい色を灯していた。
「俺の魔術を跳ね返す術師もそういない。やはり、お前で間違いはなさそうだ」
 フィオナの頬を伝った水滴が床へ落ち、すぐさま熱にあてられて蒸発する。最早それがバケツに入っていた水なのか自分の汗なのか、フィオナには判断できなかった。
 男がぐっと床を踏み締め、一気に間合いを詰める。
 すぐさまフィオナは剣を構え、振り下ろされた剣を受け止めた。
 襲い来る黒い剣撃を間一髪で受け止め、あるいは弾きながら、男の隙を見つけてはすかさず攻撃を仕掛ける。
 最初こそ煙を吸わないよう注意していたフィオナだったが、そんな余裕などすぐになくなった。男の目的はわからないままだが、勇者を狙うだけあってやはり相当の手練だ。
 炎に囲まれ、著しく体力が消耗していく。黒煙の所為で視界も随分悪くなり、重たい体を叱咤してフィオナは男を睨みつけた。
 呼吸を乱してはいてもフィオナ程疲弊した様子のない男は、赤い目をすっと細める。
「どんなに強くても、炎の中ではただの人間だな。……脆い生き物だ」
 一瞬、赤い瞳が仄暗く光った。
 男の呟きに違和感を感じて眉を顰めたフィオナだったが、それより先に男が動いた。
 瞬く間に間合いを詰められ、反応が遅れたと後悔した時には男の蹴りを食らっていた。
 あまりの力にフィオナの体は打っ飛ばされ、まだかろうじて燃えていない壁に叩き付けられた。
 衝撃で脆い壁が崩れるのと同じく、ずるりと床に倒れ込む。床に転がった彼女が動く気配はない。
 傍まで歩み寄った男は暫し無言で見下ろすと、金髪を掴んで持ち上げた。目立った外傷はないが、気を失っているらしい。
 男はふと彼女のネックレスに目を向け、手を伸ばす。
 しかし男の指が触れそうになった瞬間、バチッと静電気のようなものが走り、石が男の指を拒んだ。
 男は僅かに目を見開くと、ふっと冷笑する。
「魔術は弾くが剣は防がない。魔を拒む、か……よほどこの女の腕を信頼していたのか」
 見た事もない魔術師を嘲るように笑い、石を強く握った。
 エメラルドの石はまるで悲鳴を上げるかのように強く光を放つと、男の手によって粉々に砕かれる。
 パラパラと手から零れ落ちるエメラルドの破片を見る瞳はどこまでも冷たく、危ない色を灯していた。
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