欲しいもの

 フィオナはまるで金縛りにでもあったかのように、体が動かなくなった。
 男達に押さえ付けられている所為でも、ましてや恐怖からでもない。
 ただ、彼女の名前を呼ぶ声に、驚くことしかできなかった。
「クソ……ッ」
 忌々しげに、先程まで勝ち誇ったような笑みを浮かべていた男達の顔が歪む。彼らを完全に包囲した兵は剣を構え、鋭く男達を見据えていた。
 ゆっくりとフィオナを拘束していた男達の手が離れ、その手は頭へと回される。反抗しようという意志すら殺がれる圧倒的な人数の差に、彼らはそうする他に無かった。
 舌打ちをする男達の中で、フィオナはそっと痛む体を動かす。
 周りを囲む兵士達。そして彼らを従える青年を見つけた時、掠れた声が彼女の唇から零れ落ちた。
「……エリオッ……ト……?」
 見開かれた翠玉の瞳を見つめて、エリオットは目頭が熱くなるのを感じた。
 兵士がテキパキと男達を捕縛していく中駆け寄って、僅かに上体を起こした彼女の傍に膝をつく。
 彼女の白い肌を隠す筈の衣は無残にも引き裂かれ、体中泥と擦り傷だらけだ。ただ瞠目するばかりの彼女を、強く抱き締めた。
 びくりと強張った体躯は筋肉質でありながら女性らしい柔らかさを残し、それがますます彼の胸を締め付ける。
 彼女が痛みを訴える程強く抱き締めると、少しだけ腕を緩めて彼女の顔を覗きこんだ。
「悪い、フィオナ。まだ何もされていないか?」
「あ、ああ。それは大丈夫、エリオットが来てくれたから……」
「……本当に、悪い。ごめん、フィオナ、ごめん」
 エリオットは今になって、自分が油断していた事を思い知る。彼女は名高い勇者様、ただの人間相手ならば並大抵の事では屈することなどある筈が無いと。
 しかしいくら腕が立とうと、彼女が女であることには変わりはない。
 彼女が魔王を倒すまでに至ったのは、仲間の助けがあったからだと理解していたつもりだった。
 ――こんな事になるまで気付かなかったなんて、俺は……っ!
 泣き出しそうな程に顔を歪めたエリオットを見つめて、フィオナは首を傾げる。何度も謝罪を繰り返す彼が自分を責めている事はわかっても、その理由がわからない。
 フィオナは尚も抱き締めて離さない彼の頬に、そっと触れた。綺麗な頬が砂で汚れる。
 今度はエリオットが瞠目する番で、そんな彼を見て彼女はくしゃりと破顔した。
「馬鹿だな、エリオット。私に礼を言わせる暇も与えてくれないのか?」
「っ……礼、なんて、言う必要は無い。お前は、俺の所為で……」
「――ああっ!」
 僅かに目を伏せた彼の声を遮って、フィオナが突然声を上げる。
 それにびくっとしたエリオットだったが、まさか何か大変な事でもあったのかと彼女を見ると、フィオナは不安げにその瞳を揺らしていた。
「ダ、ダイナ! ダイナを探さないと!」
「ダイナ……?」
「アイリス様の猫だよ! もし死んじゃってたらどうしよう!」
 子供の頃は魔物がいたから危険には違いなかったが、今も魔物に怯える必要がなくなった分、悪党共がここを好き勝手使っている。
 あのアイリスの愛猫なのだから、さぞ大切に育ててもらったに違いない。フィオナに猫の価値などわからないが、種類によっては高値で取引されるものもあるのだろう。
 もしそれをさっきのような輩が見つけたらと思うと、いてもたってもいられなかった。
 腕の中で慌て始めたフィオナにしかしエリオットは一気に肩の力が抜けるのと同時、苛立ちが込み上げる。それをぶつけるように、彼女の額に思い切り頭突きをお見舞いした。
 苦悶の声を上げたフィオナは、相当痛かったのかうっすらと涙を浮かべている。それにすら苛立ち、エリオットは力一杯怒鳴りつけた。
「こンの馬鹿! 俺がどれだけ心配したかわかってるのか!?」
「そ、そんなに怒らなくてもいいだろ! こんな所に、あのお嬢様が探しに来れる訳ないんだから……」
「まだわからないのか! 猫なんか最初からいない! アイリスはペットなんて飼ってないんだ!!」
 ぱちくり、と丸くなる彼女の瞳に、エリオットはどっと疲れが押し寄せる。
 どうしてここまでされておいて気付けないのか、甚だ疑問だ。これは学が無い以前の問題だ。
 どうやって文句と説教のダブルパンチを食らわせてやろうか考えていると、不意にフィオナが「そっか」と小さく呟いた。
「そうか、いないのか。……よかった」
 嬉しそうに顔を綻ばせて、胸を撫で下ろすフィオナ。彼女の表情には安堵と喜びだけが浮かべられていて、その笑顔が堪らなく愛おしいと思う。
 何年経っても変わらない。唯一つ欲しいものが、今目の前にある。
 エリオットは溜息を吐いて、砂に汚された金髪を愛しむように撫でた。
「……ほんと、お前には敵わないな」
 眩しそうに細められたバイオレットの瞳を見つめ、フィオナは首を傾げた。
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